日々に朝日に向かい心から
限りなき身と思う嬉しさ(御歌一五八号)
この御歌は、「御神詠奉讃歌」の第三番(通称「御日拝の歌」)の中で、「天照らす神の御徳は天つちにみちてかけなき恵みなるかな」(御文八五号)に続いて歌われている御神詠です。
教祖神はこの御歌の通り、日々の御日拝において「限りなき身の嬉しさ」を実感し、御日拝によって天地と共に気を養い、〝生き通し〟を体認されたことと拝察いたします。生命の大元たる天照大御神と一体になり、生き通しを体感された喜びを歌われています。
天保二年(一八三一)三月二日(旧暦)に一森彦六郎氏へ出されたお手紙(御文一〇〇号)に
「毎朝、東にお向かい遊ばされ、日の神様(大御神様)へのご拝に、今日も何事も御かげにて別条ござなく候ようにと、ご祈願遊ばされ候て、お疑いお晴らし遊ばされ候えば、まことに御大丈夫にござ候。そのお心得に遊ばされ候えば、小子(私)も日々ご拝つかまつり候あいだ、万事ご安心遊ばされくださるべく候」
とあります。
「御日拝において、『今日も何事もおかげで変わったことがありませんように』と祈願し、疑いの心を晴らせば大丈夫です。そうしたお心になりますと、私も日々拝んでいますので万事ご安心ください」と仰せになっています。
私たちは得てして、自分の願い事ばかりを祈ってしまいがちですが、真の祈りは「おかげさま」という感謝の祈りです。御日拝を通じて、天照大御神に「生かされて生きている」という感激と感動、そして感謝の心を養うことによって「日の御蔭」がいただけるのです。
私たち人間は、大御神様のご分心(わけみたま)をいただく神の子です。そのご分心は生き通しであり、人の本体です。ですから、わが身を「限りなき身」と仰っていて、「形諸共生き通し」のところをお示し下さっています。大御神様は不滅の御活物ですから、御日拝によって大御神様と共に限りない生き通しの実感が湧いてこられたのです。大御神様を親様と思い強くお慕い申し上げれば、ご分心を通じて一体の心境になれることをご教示下さったものと伺います。