「祝い年」の幕開け
―心は大磐石の如くおし鎮め、
気分は朝日の如く勇ましくせよ―
教主 黒住宗道

 昨秋以来小康状態を保っていた日本国内の新型コロナウイルス感染症の流行状況ですが、現在は新種のオミクロン株の猛威によって第六波の禍中にあります。しばらくは、身を潜めて〝嵐〟が過ぎるのを待つしかありません。

 今年もコロナ禍とともに幕が開けました。ただ、闇雲に怖がった一昨年や怯え続けた昨年と違い、「正しく恐れて堅実に行動する」三年目にしなくてはならないと思います。昨年十二月号の本稿を「再始動の時」と題しましたように、私たちにあっては「まることの生活信条」を基本として、教祖神の御瀬踏みを安心の拠り所にさせていただき、“用心”と“心配”を怠ることなく「ありがとうに、ありがとうに」日々を重ねてまいりましょう。皆様の無事安全を、心より祈念いたします。

 さて、早いもので今年は京都・神楽岡宗忠神社ご鎮座百六十年の年です。予定されている十月十六日(日)の記念祝祭が無事執行できることを願い祈るばかりですが、十年前の平成二十四年(二〇一二)のご鎮座百五十年の年が「祭り年」の始まりでした。その翌年の平成二十五年(二〇一三)が二十年毎の伊勢神宮式年遷宮の当年で(第六十二回「遷御の儀」斎行)、明くる平成二十六年(二〇一四)がいよいよ黒住教立教二百年、そして平成二十七年(二〇一五)の大元宗忠神社ご鎮座百三十年までの四年間を「祭り年」と称して、有り難く賑々しく迎えさせていただきました。百年に一度、しかも純国産の宗教が誕生して初めての二百年という事の重大さから「祭り年」と称するのはこの時に限るつもりですが、神楽岡・伊勢(次の遷宮への準備が始まることから)・神道山・大元という、黒住教にとって掛け替えのない聖地・霊地の尊い節目の時が連続して十年毎に訪れるという御神慮を、ぼんやりと過ごしてしまうのはもったいない限りです。そこで、「祝い年」と称して、一層めでたく「ありがとうなって」、お道づれの皆様と喜びを分かち合いたいと願い、本稿を「『祝い年』の幕開け」と題させていただきました。

 誰もが心改まって新年を迎えるように、また神籬立てて結界で区切って場所を祓い清めて祭事が行われるように、時空(時間と場所)の節目を意識して節度と威儀を正して事に臨む姿勢を、古来日本人は重んじてきました。たびたび引用させていただく「神道は祓いの一言に在り。祓いは神道の首教なり」という教祖宗忠神の御教えも、日本人の美意識の根底にある“祓いの精神”を明示して下さっていると思います。〝第六波〟の禍中に申し上げるべきことではありませんが、価値観の大きく変容した現代日本社会でも、昔から変わらない当たり前の数々、たとえば欧米社会のように土足のまま家の中で生活しないとか、相変わらずほとんどのレストランでお手拭き(おしぼり)が出るとか、トイレの後は必ず手を洗うとか、毎日風呂に入るとか、もちろん例外もありますし日本人だけの習慣ではないものの、徹底しているにもかかわらず特別に意識もされない日本社会の〝特殊性〟ともいえる日常は、きっとコロナ感染予防にも大きく貢献していると思います。

 つい、コロナ下なるが故の話題になってしまいましたが、要は「慎重に、されど晴れやか に」日々を送るためにも、今年からの「祝い年」は絶好のタイミング、まさに御神慮であることを、お道づれの皆様に自覚していただきたいのです。その意味で、「心は大磐石の如くおし鎮め、気分は朝日の如く勇ましくせよ」との御教えを、コロナ禍中に迎えた「祝い年」の幕開けに際して、本稿の副題として掲げさせていただきました。

 本「道ごころ」においても、秋の祝祭までに神楽岡宗忠神社の有り難さについて述べたいと思っていますが、既存の書物や映像等の資料を紐解いて、宗忠神への敬仰・思慕の信仰心を大いに膨らませて下さい。幕末の動乱期から明治維新という日本国が存亡の危機に直面した際の宗忠神の尊い御導きを、心躍らせて自らの心に刻んで下さい。申し上げるまでもなく、それは決して過去だけの物語ではありません。いつの時代も、「この左京を師と慕う者を決して見殺しにはせぬ」との御言葉は、宗忠神を師と慕う者のためにあるのです。

 私が最も有り難いと感じる本教の素晴らしさは、地球上の全ての人々に通じる〝日の御徳〟を真正面から説いて〝日の御蔭〟を万人と分かち合えることと、教祖宗忠神を今も確かに私たちを導きお救い下さる神と信じて仰ぐ(信仰する)ことが、科学的見地優先の現代社会においても何一つ矛盾することなく、何一つ憚ることなく正々堂々と説き示すことができることです。宗忠神の尊さに深く感じ入り、心から敬仰・思慕する信仰心を持てた時、すなわち「宗忠神を師と慕う者」になれた時、「決して見殺しにはせぬ」との有り難いお導きとお救いの確信を得られるのです。「御道の宝」である神楽岡宗忠神社の歴史を自ら求めて、宗忠神への想いを深めていただきたいと心から願います。