「立教二百年を迎えた黒住教について」(3) (宗教新聞フォーラムでの講演報告)
平成26年10月号掲載
引き続き、「宗教新聞フォーラム」における講演要旨を同紙より転載させていただきます。
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「天命直授(てんめいじきじゅ)」
その後、宗忠の肺結核は日々薄紙をはがすように回復していきます。3月半ばになって、気分がよくなったことから、「まだ早いのでは…」と夫人が止めるのを退けて湯あみをして身を清め、日拝して、これで病は癒えたとの確信を得ます。これが「第二次御日拝」です。
病を克服した宗忠は、一層熱心に毎朝、日拝するようになり、心に深く感じることを人々に説き聞かせるようにもなります。そんな中に迎えたのが、数えて35歳の誕生日である文化11年11月11日(旧暦)の冬至の日です。1が6つ重なるのも偶然とは思えず、私たちは尊きご神慮と有り難く信じています。
感慨一入(ひとしお)の思いで日の出前から東の空に向かって祈りを捧(ささ)げていた宗忠は、一筋の光が差し込んだ日の出の太陽がぐんぐん大きくなり、自分に差し迫ってきたのを思わず呑(の)み込んで、天照大御神と一体になるという神秘的な体験をします。これを黒住教では「天命直授」と呼び、立教の時としています。それがちょうど二百年前のことで、「天の御命を直接授かった」と、後に教祖はその瞬間のことを語っています。
今でも私たちは三大修行の一つとして、独特の呼吸法でもある鎮魂行として「御陽気修行」を行っています。吸う息の最後の一口をゴクンと呑み込んで、御光とともに天照大御神の神気・霊気を下腹に納めることで心を鎮め丹田を養う行で、宗忠が太陽を呑み込んだ姿に倣っているわけです。
黒住教を研究対象の一つにしている井上順孝國學院大學教授に、「黒住教は教主・副教主をはじめ信者たちが明るく、よく笑い、声が大きいのは、太陽の宗教であることとともに、悟りを開いた瞬間に宗忠が笑い通したからではないでしょうか。数日間、笑い転げていたものだから、周りから気がふれたのではないかと思われたという。悟りを得た瞬間が、そんなエピソードで伝えられる宗教はほかにないから、陽気さは宗忠からの血ですかね」と言われたことがあります。
宗忠の教えは、参勤交代で江戸にいる武士の弟子たちに、岡山の家族の近況を知らせる手紙に添えて、道を説いたものが数多く残されています。それがかなり散逸していたのですが、明治時代に私の曽祖父に当たる四代宗子(むねやす)が真筆を集め、あるいは書写して取りまとめ、明治後期に「黒住教教書」として出しました。教養の高い武士との間では、「無を養う」「我を離れる」「天に任せる」など禅問答のようなやりとりもあります。教えの全容が書かれているわけではありませんが、黒住教にとって最も大事な教典です。
宗忠の逸話(いつわ)は、岡山出身の作家である正宗白鳥が早稲田大学にいた頃の弟子でもあった河本一止(本名は正)という篤信家が、生前の宗忠を知る年寄りを訪ねて聞き集めました。それをまとめたものが『御瀬踏(みせぶみ)』で、後に『逸話集』として出されています。
20歳の頃の志を果たすべく修行を積んで、すでに人徳者として敬われていたとはいえ、宗忠は「天命直授」の悟りを得て、すぐに人々から“神”として信仰されたわけではありません。まるで悟りを得るのを待っていたかのように、不思議なことが起こりました。
黒住家に同居して花嫁修業をしながら家族の世話をしていたみきという娘さんが、七転八倒する腹痛を起こし、かわいそうに思った宗忠が祈り、息吹きを吹きかけると、たちどころにして治ったことがありました。それが「みき女(じょ)へのお取り次ぎ」と呼ばれるもので、宗忠本人も驚き、他言しないように言ったのですが、こうした話はすぐに広まるものです。
間もなく、今村の北にある竹通しという村で眼病が広まり、村の世話役から助けてほしいと頼まれたのです。宗忠は辞退したのですが、重ねて乞われたので赴き、祈りつとめたところ、眼病はたちまち治りました。
そうしたことから、今も私たちは、病み悩み苦しむ人たちのために祈り、天照大御神のご神徳をお取り次ぎして、より良い方向に導かれるように努めています。知識だけではなく、実践を伴ってこその教えという宗忠の姿勢が、そこからもうかがえます。
人は天照大御神の子
黒住教が宗忠の時代から重んじている三大修行は、「日拝修行」「御陽気修行」「お祓い修行」です。宗忠は神職として、悟りを開く前から、神道の基礎知識を学び修めて、「中臣(なかとみ)の祓い」と呼ばれる大祓詞(おおはらえのことば)を唱えていました。
昨年10月1日から、立教二百年大祝祭の最終日である今年の11月3日まで、私たちは「立教二百年 教祖神報恩一千万本お祓い献読」として、下腹からの声で大祓詞をひたすら唱えています。大祓詞一本につき一枚のシールを専用の台紙に貼って、百枚(お祓い百本)で一杯になったら各地の教会所を通じて岡山にある神道山・大教殿の御神前にお供えしています。宗忠ほど大祓詞を上げ、重んじた人はいないとされながら、その言葉の意味について一切解説していません。「ただ無心に一本でも多く唱えよ」というのが、私たちの重んじる「お祓い修行」です。
天命を直授した宗忠の説教が綴(つづ)られた『道の理(ことわり)』に、「およそ天地の間に万物生々するその元は皆天照大御神なり。これ万物の親神にて、その御陽気天地に遍満(みちわた)り、一切万物光明温暖(ひかりあたたまり)の中(うち)に生々養育せられて息(や)む時なし、実に有り難きことなり」とあります。古来、太陽神、日の神としてあがめ奉られてきた天照大御神を古事記神話で語られる神に限定するのではなく、また皇祖天照大御神を尊崇しながら、そうした解説も一切することなく、天地万物すべての親神としての天照大御神を高調しています。「天地の間に万物生々するその元は皆天照大御神」というのが究極の神観、世界観です。太陽や朝日が神というより、目には見えないが確かにある万物の親神である天照大御神の現れが太陽、朝日であり、そこに象徴されるという教えです。
続いて、「おのおの体中にあたたまりの有るは、日神より受けて具えたる心なり。心はこごるという義にて、日神の御陽気が凝結(こりこご)りて心と成るなり」とあります。別の言葉では「人は『日止(とど)まる』の義、『日と倶(とも)にある』の義」とあります。太陽を通して現れる天照大御神が、万物の親元であるのだから、その分け御霊(み たま)、ご分心を誰もが頂いている。人は、罪の子、穢(けが)れの子ではない、みな尊い神の子であるというのが宗忠の説き明かした人間観です。
(つづく)