人は人に尽くして人となる
教主 黒住宗道

 岡山県と香川県を圏内とするテレビとラジオの放送局であるRSK山陽放送(株)の番組審議委員を、私は依頼を受けて平成二十七年(二〇一五)から務めています。毎月〝課題〟のテレビとラジオの番組がDVDとCDで届けられ、視聴した感想を月に一度の審議会で述べるのが役目で、審議対象番組は系列の中心(キー局)である(株)TBSテレビの番組を含めて〝力作〟が多く、結構楽しみながら、現代社会へのマスコミの影響力に対する辛口批評も含めて発言しています。ローカル局とは申せ、一宗教教団の教主が〝社会の公器〟のご意見番(数年前から副委員長)を任されることに、本教の社会的信頼の厚さを感じながら任務を果たしています。

 実は、数カ月前の〝課題〟であったラジオ番組が、この程「第四十七回(公財)放送文化基金賞ラジオ部門最優秀賞受賞」という栄誉を受けました。審議対象として放送を聴いた時から、「いつか『道ごころ』で取り上げたい…」と思っていましたので、受賞を喜び称えるとともに、満を持して今月号で紹介いたします。

 それは、今年三月二十七日放送の「塀の中のラジオ~贖罪と更生 岡山刑務所から」というドキュメンタリーで、毎週土曜日の夜九時からの三十分間、四十年以上にわたって岡山刑務所で放送されている「受刑者による受刑者のためのリクエスト番組」を、関係者へのインタビューを織り交ぜながら紹介したものでした。受刑者からのリクエスト曲を外部ボランティアの協力によって放送する番組は他の刑務所にもあるようですが、寄せられたリクエストの中から曲にまつわるコメントとともに六曲を選び、自らの一言を添えて司会進行するDJ(ディスクジョッキー)まで受刑者がつとめるという番組は全国でも例がないそうです。服役する四百四十人の過半数が無期刑という、人を殺めた〝生命犯〟の重罪人を収容する岡山刑務所で、昭和五十五年(一九八〇)以来続く唯一無二のこの番組は、「どんな受刑者も、罪を犯す前の〝人としての気持ち〟を持ち続けてほしい…」と願った当時の所長の強い信念によって始められたもので、放送開始当初に番組作りを手伝ったのがRSKとのことでした。

 審議対象番組では、「リクエストした曲が流れるのを楽しみにしている…」という受刑者の声が、エピソードとともに次々と紹介されます。取り返しのつかない大罪を犯す前の思い出と結びつく懐かしい音楽が、彼らの贖罪と更生のために有効であろうことは容易に想像できます。だからこそ、「受刑者からのリクエストを放送する番組」が他の刑務所でも存在しているのでしょう。重罪人とは思えない素直な言葉に同情心も芽生えますが、同時に「被害者の家族(遺族)の存在を忘れてはならない…」という思いも膨らみます。音声だけで想像力を搔き立てられる〝ラジオの力〟を実感するとともに、出所というゴールの見えない無期刑者にも心の安らぎを確かに与えている、この番組の存在意義を深く感じ入りながら知ることができました。

 その上で、岡山刑務所だけに存在するDJの発言には、同情心を通り越して感心させられるものがありました。現在三人のDJが月単位で交代で担当しているそうですが、リクエストに込められた一人一人の思いを読み取り、年齢差と楽曲ジャンル(様式区分)のバランスを配慮しながら、三十分という限られた時間で六曲しか選べない歯がゆさを感じつつ、リスナー(聴衆)が喜んでくれることを願って番組作りを行うという経験が、言葉に深みを与えているのは明らかでした。「ここに来て、昔の自分のことを思うと、やはり自己中心というか〝認知の歪み〟とかいろんなことがあったことを感じます。事件を起こした時は〝人〟ではなかった…。それが、今はちょっと〝人〟に近づいているような、人間らしくなっているように思います」、「生きてここから出られるのか、出られないのかも全く分からない無期刑で、時間が解決してくれることではないか…と、今は思っています。朝起きて『今日一日、何か良いことがあればいいな…』と希望をもって、昼は一生懸命仕事をする、そして夕方は感謝をするということを自分に課しています。そうした気持ちで、毎日を穏やかに過ごせたらいいかな…と思っています」

 三十年にわたり本教を代表して岡山刑務所で宗教教誨師※をつとめる藤井教会所(岡山市)の日笠徹所長や、また私が世話役事務局長をつとめるRNN(人道援助宗教NGOネットワーク)のメンバーで同じく岡山刑務所の教誨師を長らくつとめている天台宗僧侶の友人からよく聞くことですが、多くの受刑者たちは実に素直に宗教講話を聴き、自分の犯した罪と真摯に向き合って贖罪と更生につとめているようです。友人の僧侶とは、本稿執筆中に報道された刑務所内で自死した受刑者の葬儀を彼がつとめた直後にも会話をする機会がありましたが、「もちろん、いろんなことがあるが、真剣につとめている人が多いのは事実…」と、先入観による誤解が膨らむことのないように気遣っているようでした。

 重罪犯だからこそとも言える、「(あの頃は)〝人〟ではなかった…」と「(今は)ちょっと〝人〟に近づいているような…」という象徴的な発言や、〝認知の歪み〟という難しい言葉は、それこそ教誨師か誰か専門家から教えられたのでしょうが、どの受刑者も異口同音に発する「自己中心」・「わがまま」・「独りよがり」への深い反省、そこに、他の受刑者を慮って番組作りに喜びを感じるDJの言葉を重ねると、六代様が度々教え示して下さった「人は人に尽くして人となる」の重大さ・大切さをヒシヒシと感じます。

 先月、および先々月にお話ししてきた、「『人に必要とされている』という実感、すなわち『人に喜ばれることの喜び』は、最も祓われた時の満ち足りた心境」、また「達成感や喜びを共に分かち合えるような、建設的で生産的で能動的な実践」としての「ありがとうございます運動」等と関連付けながら、〈奉仕の誠〉の尊さを一層深く胸に刻んで、ともに誠を尽くしていただきたいと思います。

※教誨師:刑務所において受刑者に対して犯した罪を悔い改めさせるために道を説く人のこと。