「暮らしの基本に「敬神崇祖」
(元旦放送のRSK山陽放送ラジオ番組「新春を寿ぐ」より)
教主 黒住宗道
平成31年1月号掲載
新年あけましておめでとうございます。この一年(ひととせ)の皆様のご多祥・ご多幸を心からお祈り申し上げます。
「敬神崇祖」という言葉を知らない人が多い時代になりました。私は一人の宗教者として、日本人が昔から重んじてきた「神々を敬い、先祖を崇(あが)める」という伝統的宗教心の大切さを、今の時代に生きる人々が再認識して、日々の暮らしの基本に据えてもらいたいと願っています。
いま「神々を敬い…」と複数で表現しましたが、日本古来の神道の特筆すべき「八百萬神(やおよろずのかみ)信仰」は、世の中の全ての尊いはたらきを神と称(たた)えてきた大らかな伝統です。「八百万」の神々を実際に指折り数えた人などいるはずもなく、「嘘(うそ)八百」や「江戸八百八町」また「八百屋」に通じる、「数えきれないほど多い」すなわち「全部」という意味です。立派な人が神として神社に祀(まつ)られてきたのも、亡くなった人が皆“仏”と称されてきたのも、「神=ゴッド」と考えると説明できない、森羅万象一切のはたらきを、恐れ畏(かしこ)み奉るべき尊き存在と崇め拝(おろが)んできた日本ならではの信仰伝統だからです。
最初に申し上げるべきことでしたが、昨年の豪雨災害により、新年を自宅で迎えることが出来(でき)なかった方が多くいらっしゃると拝察し、被災された方々に心からお見舞い申し上げます。今も苦しみの中にある人々のことを、毎朝日の出を拝む「日拝」の際に祈らない日はありません。宗教者である私でなくても、誰もが早期復興を、さらには犠牲になった方のご冥福を「祈り」ます。普段信心深い生活をしていなくても、「祈らずにはいられない」、「祈るほかない」のが、非常事態を知った人の自然で当然の心情です。もちろん、自らが窮地に追い込まれた当事者の場合は、救いを求めて祈らない人はいません。「いざ!」という困ったときに“神頼み”しかないことを知らない人はいないのに、普段の生活に「祈り」が重んじられないのは何故(なぜ)なのでしょう…?
その理由を考えた時、いま私が「祈り」と表現した言葉は「願い」と置き換えられることに気づきました。対象が自分であっても他人であっても、たとえ亡くなった方であっても、現在の苦しみからの解放を「願う」という心情自体は実に人間味あふれる尊い心のはたらきですが、厳密には「祈り」と「願い」は異なります。「大いなる尊い存在に対して自分の願いがかなうように頼む(お願いする)」という「祈り」の根底には、「祈りを捧(ささ)げる存在」が欠かせません。多くの人々にとって、この「祈りを捧げる存在」が明確に意識されていないから、特別な「願い」を必要としない日常の生活において、「祈り」そのものの大切さも見失われがちなのではないかと思います。
先に申し上げたように、日本古来の八百萬神信仰は、宗教というよりも、日常生活そのものが神々(または神仏)とともにあるような、生活の文化であり習慣でした。もともと私たち日本人は、自然の豊かな恵みと、時に激しすぎる強大な力に守られ生かされるとともに鍛えられ苦しめられて、ひたすら謹み深く畏み奉って生き抜いてきたのです。そのような独特な信仰の伝統が時代の移ろいとともに大きく様変わりしている今の世の中なればこそ、「神(または神々)」という「祈りを捧げる存在」を、あらためて畏敬・畏怖の念をもって意識する「敬神」の心が大切だと思うのです。
一方、七五三や初詣、またご先祖の式年祭(仏教で言うところの法事)等で子供さんやお孫さんと一緒に参拝されたご家族に、私は次のような話をしています。 「子供よりも孫の方が可愛(かわい)い」と、よく聞きます(ここで“おじいちゃん・おばあちゃん”たちは、ほとんど間違いなく大きく頷(うなず)かれます)。その理由はさておき、「孫も可愛かったが、ひ孫は格別」と、何人もの“ひいおじいちゃん・ひいおばあちゃん”から伺いました。「さもありなん…」と思った時に気づいたのですが、「『ひ孫も可愛かったが、ひいひ孫はもっと可愛い』とか『ひいひ孫も可愛かったが、ひいひいひ孫はもっと可愛い』と、ご先祖様たちは思って下さっているのではないか…」、そのように考えることもできるのではないでしょうか?
自分自身が子供の立場では気づかなかったわが子・わが孫・わが曽孫への愛(いと)おしさを、親になって祖父母・曽祖父母になって誰もが実感するのであれば、未(いま)だ曽々祖父母・曽々々祖父母になる前から頭ごなしに否定するよりも、「言われてみれば、そうなのかもしれない…」と思う方が嬉(うれ)しい気持ちになります。「自分は、ご先祖様にとって可愛い可愛いひいひ孫、ひいひいひ孫…」と想像すると、誰でもほのぼのとした有り難い気持ちになります。この温かい心から生じる先祖への敬慕と報恩の心が「崇祖」だと思うのです。
先祖は、「罰(ばち)を当てられたり祟(たた)られたり呪われたりするのが怖いから」祈るのではありません。「親が子を祟ったり呪ったりするはずはない!」と確信して、八百萬神として常にお守り下さるおはたらきに感謝の祈りを捧げるのが、私たちのご先祖への信仰です。同時に、代々受け継がれてきた遺伝子・DNAは、古来“血”と称して重んじられてきた一人ひとりの「アイデンティティー(自己の存在証明)」そのものです。「自分探し」に悩める現代人の不安解消策は、自分自身のルーツを重んじる心だと思います。「ひいおじいさんは歌が好きだったんだ(決して上手(うま)くはなかったらしいけど…)」とか、「ひいおばあさんは、若い頃は結構なお転婆だったけど運動神経が良かったらしい…」とか、独りで背負い込んでいた自分の長所や短所の起源を見つけられたら、心がすっと楽になるものです。
自然の猛威に接するたびに、科学技術の発展によって、その“仕組み”は解明できても、恐れ敬い謹み畏み奉るべき対象であることに変わりはないことを実感します。毎日の暮らしの中から“手を合わす習慣”が無くなり、人の死さえも“処理”されるような時代に、私たち宗教者の使命はいよいよ重いと確信します。
「敬神崇祖」を今年のキーワードとして心に留めていただければと思います。あらためて、皆様のこの一年のご多祥・ご多幸、とりわけ被災された方々の復活・復興を心からお祈り申し上げます。
※RSK山陽放送ラジオは、昭和28年(1953)に岡山市に開局し、以降毎年、元旦放送恒例の第一声として、五代宗和教主様の「新春を寿ぐ」とのご挨拶(あいさつ)を放送してきました。同49年(1974)からは、六代様が同放送を受け継がれ、昨年より現教主様に継承されました。