「教主は、
   病み悩み苦しむ人の為に在る」
教主 黒住宗道

平成30年12月号掲載

 去る10月27日と28日に斎行された、立教204年、神道山ご遷座44年、七代教主就任一年記念の記念祝祭は、別掲の通り各地各所よりお参りいただいた皆様と共に、まことに賑々(にぎにぎ)しく有り難く斎行されました。実は、27日の祭典中、御訓誡捧読(ごくんかいほうどく)に続く高座からの説教中に、私は自分でも予期せぬ言葉を思わず口にして、自ら発したその言葉に驚きながらも感激して、あらためて心を込めて両日の祝祭において宣言するという“おかげ”をいただきました。それが、冒頭の「教主は、病み悩み苦しむ人の為に在る」の一言でした。

 「自分でも予期せぬ言葉」と申しましたが、「病み悩み苦しむ人」のために祈り説き取り次ぐことは、若い頃から父の姿を通して宗教者の在るべき姿として学び、日々重んじてきたことです。一人の宗教者として「病み悩み苦しむ人のためにありたい」とか「病み悩み苦しむ人のためにあるべし」という姿勢は常に心掛けてきたつもりですが、「黒住教教主は、病み悩み苦しむ人のためにあるのだ!」という確信が、思わず口をついて言葉として発せられたことに、我ながら驚き感激したのでした。

 教主を拝命して一年が経(た)ち、それまでの教主名代としての副教主(教嗣)の頃とはまるで異なる責任の重さというか“最終請負人”としての覚悟が肚(はら)に鎮まったことを折に触れて感じます。重圧といえばそれ以外の何物でもありませんが、喜びも楽しみも、苦しみも悲しみも一切を我が事として感じられる“主体性”と呼べるような何かを受け継がせていただいたことを実感しています。

 それだけに、御祈念をつとめる方への思いが一層募るようになりました。とりわけ、毎朝の御日拝は、自宅を出て日拝どころに向かう道中から心中にて大祓詞(おおはらえのことば)を繰り返し唱えながらお一人お一人の名前やお顔、また教会所の御神前や所長の顔を思い浮かべつつ、「日の御蔭(みかげ)」をしっかり受けていただきますように「神徳昭々(しんとくしょうしょう)」を祈り続けています。そして、手術や検査が執行される当日は、事改めて大教殿の御神前に据え置かれている禁厭(きんえん、御祈念札)を開いて祝詞(のりと)を奏上して「手術安全・術後良好」、「検査良好」、「本復成就」を祈ります。

 「医学の目覚ましい進歩・発展によって、かつての“病治し”の祈りは不要になった…」と考える人も少なくはないでしょうが、専門化・細分化が進めば進むほど処方や治療の手段の選択肢や組み合わせが複雑になり、「最良の結果を導くための最善の判断・診断を下すには、科学的なデータだけでは不十分」と何人もの医師が公言しています。また判断・診断のみならず、施術自体が“神業”とも言われる微細で超絶な技術と精神力、また体力を要する場合が多く、執刀医の先生が心身ともにベストコンディションで臨んでいただけるように、まさに「神に祈る」ほかないのが患者と家族の偽らざる心境です。そして、よほど強い精神力の持ち主でない限り、救いを信じて任せ切れる信仰心のある人の方が、不安や動揺を拭い去って大安心の心持ちで施術や治療を受けることができ、その結果として免疫力や回復力が顕著になることは、今や科学的にも証明される時代です。

 祈りと医療がひとつになって治癒効果を高めることを意味する「祈れ、くすれ(薬)」は、今の時代において益々(ますます)その必要性が増していると確信しています。

 とりわけ、「インフォームドコンセント(十分な情報を提供した上での合意)」や「アカウンタビリティ(説明責任)」、また「コンプライアンス(法令順守)」といった社会が求めるルールによって、「知らなくてもよい情報」とは申しませんが、患者や家族が不安を募らせざるを得ない事前の情報告知の了解が義務付けられますから、御祈念をつとめる私たちにとっても責任は重大です。お参りになった方には直接尋ねて現状を伺い、御祈念申込書で通知を受けた場合は備考欄に記された情報をしっかり把握して、その上で、教祖宗忠神に一切をお任せして一心に大祓詞を唱え、「大丈夫!」との確信のもとに祝詞を奏上し、ご神徳のお取り次ぎを行います。申し上げるまでもないことですが、私たち黒住教の道づれ(信仰者)には教祖宗忠の神様がついて下さっているのです。なんと有り難いことでしょう!「この宗忠を師と慕う者を決して見殺しにはしない!」との力強い御一言は、まさに「病み悩み苦しむ」人のためにあるのです。黒住教教主は教祖宗忠神の名代であるという責務と使命を実感すればするほど、「教主は、病み悩み苦しむ人の為に在る」と確信させていただけたことを有り難く尊く思います。

 日頃からの思いが深い故に、御礼報告の喜びを一際熱く感じられるようにもなりました。本稿執筆中にも、今年5月の交通事故がきっかけで脳腫瘍(しゅよう)が見つかり傷病平癒と当病平癒の御祈念をつとめていた方が、怪我(けが)の治療と腫瘍摘出手術を経て完治したとの朗報が届きました。また、統合失調症に対する「電気痙攣(けいれん)療法」という難しい施術を受けた方や、癌(がん)の治療と並行して極度の動悸(どうき)を抑えるための「頻脈(ひんみゃく)治療」という全身麻酔して一旦心臓を停止させて電気ショックで蘇生させるという施術を受けたお道教師、さらに懐妊中に悪性腫瘍が見つかり胎児への細心の配慮をしながらの抗癌剤治療を余儀なくされ、八月に無事出産の後に癌治療に専念して、この度めでたく「寛解(ほぼ完治に近い状態)」宣言を得た方など、事前に詳細を聞くことで煽(あお)られる不安を懸命に祓いながらつとめる毎日の祈りの中に、「全快」の報告を受けた時の喜びは何物にも代えがたく、このことを日々実感させていただく有り難い昨今です。もちろん厳しい現実を知らされる場面もありますが、たとえ「本復」という願い通りの結果でなくても、祈りの尊さ・重大さに対する熱が冷めることはありません。

 10月以降、「新春特別御祈念」(元日午前零時から斎行される「歳旦祭」においてつとめる教主御祈念)の染筆が一番の“大仕事”です。毎日数多くの申込書に記された願い事の詳細を拝読し、心鎮めて筆を持ちます。件数もこなさねばなりませんが、決して“やっつけ仕事”にせぬよう、申し込みの方の直向(ひたむ)きな思いに心を寄せて、とりわけ「当病平癒」、「傷病平癒」、「心願成就」には思いがこもります。申込書を拝読した時から祈りは始まっているのです。

 現在の只今(ただいま)、病み悩み苦しみの中にある方々の、快癒、本復、ご開運を、心よりお祈りいたします。