6・18
 ─教主として初めて迎えた誕生日─
教主 黒住宗道

平成30年6月号掲載

 昨年の9月18日、六代様の満80歳の誕生日に第七代黒住教教主を拝命して以来、「教主として初めて…」の日々を心地よい緊張感をもって有り難く充実して送っていますが、今月18日に満56歳の誕生日を迎えるに際して、私事ながらあらためて自己紹介する思いで、これまでの人生を振り返らせていただきます。

 昭和37年(1962)6月18日に父宗晴と母祥重の長男として生を享(う)けた私は、第五代宗和教主様と千鶴子婦人会会長の初孫として、そして黒住宗家の嗣子として、有り難くも深い愛情と大きな期待に包まれて育てていただきました。幼児期は、“立っち”したのが1年7カ月、初めて言葉を発したのが3歳の誕生日の頃と、大層な“奥手”で、周囲には心配して下さる方もいたようですが、「立ったらすぐに走り始めるぞ…」「いったん言葉を発したらよぅ話すようになるぞ…」という五代様の言葉通り、十分すぎる“匍匐(ほふく)・四足(よつあし)”期を経た後は間もなく走り出し、長い長い“寡黙・傾聴”期を卒(お)えた時には結構な“大人会話”をしていたようです。おかげさまで、その後は“走りすぎ”と“話しすぎ”に注意しなければならない半世紀を送っています。

 幼い頃の一番の経験(かすかな思い出)は、昭和40年(1965)10月から4カ月間の両親の不在でした。次代黒住教教主である父に大きな期待を寄せて下さった岡山政財界のリーダー各位のご支援の下、海外旅行もままならない当時に「世界一周の旅」という貴重な機会が与えられ、夫婦で、すなわち私にとっては両親が、とりわけ母親(ママ)がいなくなる日々が訪れたのでした。宗道、3歳4カ月から8カ月の時でした。ある雨の日に、乗った車のフロントガラスを濡らす雨しずくを見て「自動車が泣いてる…」と漏らしたそうですが、子供ながらの寂しさと悲しさの表れだったのでしょう。留守中は、祖父母と母親代わりの叔母が毎日地球儀を回しながら、「今頃はこの国、この街かな…」「今、向こうは朝だね…」などと話してくれていたようで、今から思えば実に有り難い“幼児教育”をしてもらっていたのかもしれません。帰国後に父が著した「みそしるの心」(昭和41年 日新社発行)をあらためて読み直しながら、結果的に私にとっても掛け替えのない人生の礎(いしずえ)としての4カ月だったと思います。

 ところで、昨年、岡山・サンノゼ(米国)姉妹都市縁組60周年の記念行事が行われ、10年前と同様に本教の吉備楽の一行が渡米して演奏の機会をいただきましたが、私の幼稚園から小学校低学年の頃の忘れられない記憶の一つは、わが家にホームステイをしていたサンノゼ市からの交換留学生のお兄ちゃんやお姉ちゃんの存在でした。今や世界のシリコンバレーを擁するサンノゼ市からの留学生の初期のホストファミリーとして、わが家は何人かの米国青年を受け入れました。日本語と英語のチャンポンで話し掛けて遊んでくれる彼らの存在は、幼な心に今も鮮明です。後に、私の高校・大学時代に彼(か)の地を訪れて夏休み中ホームステイさせてもらうなど、“かつてのお兄ちゃん・お姉ちゃん”とは長い付き合いが続きました。

 ホストファミリーが初期の内だけだったのは、「新霊地運動」の名の下に、いよいよ神道山へのご遷座が本格化したからでした。本誌先月号で紹介した「吉備の中山・神道山」への大教殿建立が教団の総意を得て決定された昭和44年(1969)に私は小学校に入学し、五代様の斎主により大教殿の地鎮祭が執り行われた昭和47年(1972)が4年生、先月13日に45年の式年祭(正辰祭)が行われた五代様のご昇天時が5年生、そして夜中に参列奉仕したご遷座祭が6年生の時でした。ご遷座に関わる重要な御(み)祭りには学校を休んで参拝しましたから、子供ながらに神道山時代を共に迎えつつある思いで過ごした小学生時代でした。いま教主室で神務を行いながら、眠り落ちながら歩き続けた昭和49年(1974)10月27日未明、斎主である父より先に教主室を“寝室”として初使いさせてもらったことを面映(おもは)ゆく思い起こしています。

 旧大教殿が武道館として活用されることがすでに想定されてのことだったのでしょうが、私が小学4年か5年の頃に、現在宗忠神社祖霊殿のある場所に仮設の「生々館(せいせいかん)道場」が建てられ、両親の高校時代の同期生である小合洋一氏と前黒住教学院長の黒住信彰倉敷大教会所(岡山県)所長の指導の下、柔道を習い始めました。中学校の柔道部には入りませんでしたが、高校受験の頃まで続けた柔道の稽古が、いまの健康体の基礎を作ってくれました。ちなみに、柔道のことは私の弟で宗忠神社宮司の忠親に譲りますが、彼に柔道の基本である「後ろ受け身」を教えたのは兄貴である私だと自負しています。

 高校そして大学(その前の一年間の東京での予備校生活も含めて)時代は、まさに自由に青春を“謳歌(おうか)”させていただきました。今から思えばすべて“謳歌”の宝物ですが、高校から始めたサッカー部では結局レギュラー選手にはなれず、試合は専らラインズマン(線審)という審判員で、悔しい思いをした方が多かったです。現役の頃から審判をしていたせいか、テレビでサッカー観戦する際にオフサイド(反則の一つ)やライン外に出たボールのスローイン(投げ入れ)等が、今も気になって仕方ありません。神道山に教主公邸を造っていただき転居したのが高校2年の夏で、現在の岡山市南区にある岡山県立岡山芳泉高等学校までの距離は直線距離で約10㎞と離れてしまい通学は大変になりましたが、3年間無遅刻無欠席の皆勤賞をもらえたことは大きな自信になりました。

 “滑り止め”なしの受験という無謀な挑戦の結果とはいえ、現役での大学受験に失敗した時には、「黒住教の合格祈願に悪い影響を与えてしまう…」と本気で申し訳ない気持ちになりました。ただ、高校卒業式の日の昭和56年(1981)3月11日に父からもらった手紙(六代様著の「道ごころⅡ」に掲載されています)は、受験に失敗したからこその宝物で、「今日(きょう)を存分に生ききってこそ、明るい明日があるのだ」との教えは、今も私の悔いなき人生を送る基本精神です。

 当時“浪人生活”と呼ばれた予備校生時代にも恩師と友人に恵まれ、生まれて初めての家族と離れた生活(親戚に預かってもらいました)も掛け替えのない日々でした。2度目の受験も第一志望校は不合格という挫折を味わいましたが、昭和57年(1982)に入学した成蹊大学で現婦人会会長の妻と出会うのですから、「一切神徳(すべておかげ)」です。

 妻とは、“恋愛”というより同じ学部学科の友人付き合いが高じた“縁愛”とでも申しましょうか、大学卒業後の2年間の英国留学の後に結婚という結果になった、まさにご神縁だと思っています。

 大学では、名称だけ気取った「キャンピングツアークラブ」という“野宿幕営活動部”で、国内各地の離島や半島の先端や南北アルプスの高峰という自然豊かな(すなわち自然しかない)“僻地(へきち)”を無理のないルートで合宿して回り、地元のオジサンたちや同輩・後輩たちと飲み食い語るのを楽しみにした日々を送り、80年代のおしゃれな東京での大学生のイメージとはおよそかけ離れた毎日を存分に満喫させてもらいました。とはいえ学生ですから専攻分野についても触れておくと、「文化人類学」というフィールドワーク(現地調査)に基づく学問だったので、結局は本を読んで現地を訪ねて地元の人と交流して調査結果をまとめるという、さして部活動と変わらない学生生活でした。

 昭和61年(1986)3月に大学を卒業して、一度教団に帰って黒住教学院専修科第19期生として100日間の“道の元入れ”をさせていただきました。同期は古川和匡黒目中教会所(島根県)所長、橋田和幸円海(まるみ)教会所(愛媛県)所長、岡本実大島中教会所(岡山県)所長、清末德人鳥取大教会所(鳥取市)所長たちで、学生監は現在の山辺和弘札幌教会所(札幌市)所長です。贔屓(ひいき)をしてはならない教主という立場ですが、同期の輩(やから)が現場の現役所長として布教の前線に立ってくれていることを実に心強く思っています。

 学院を終えた後の同年8月から昭和63年(1988)7月までの丸2年間、英国国立ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)に留学させていただいてからは、本誌に「ロンドンだより ─私の留学日記─」と題して毎月寄稿して、上梓(じょうし)までさせてもらっていますから、私の人生振り返りもこの辺りで擱筆(かくひつ、実際にはパソコンのキーボードを叩(たた)くのを終えること)しますが、私の55年間の人生の特筆すべき出来事の一つひとつが、黒住教教主という「あまり普通ではない」立場の土台として全て活(い)かせる体験であることを、天照大御神、ご一体の教祖宗忠神、そして五代様はじめのご先祖様のお導きとお護(まも)りによるご神慮の賜物と心から感謝しています。

 最後に、もう一つ紹介しておきたいのは、幼い頃から私がアトピー性皮膚炎に悩まされ続けたことです。当初、その病名さえも一般的ではなかったこのアレルギー性疾患には随分と鍛えられました。小学生の頃には「前へならえ」と両手を伸ばすことさえも恥ずかしく、受験生の頃には悪化して集中できず、多感な頃にはひどく傷ついたものでした。注射と服用という即効治療だけは回避しながら、あれやこれや手を尽くしましたが、結果的には年齢を重ねて「敏感肌」が「鈍感肌」になって治まったように思います。この先「老人性アトピー」に注意しなければなりませんが、大病の経験のない健康体には常に感謝しながらも、アトピーの経験が、健康者が陥りがちな病み悩み苦しむ人への配慮不足を防止するための特効薬になってくれればと思っています。

 今月の「道ごころ」は、まさに“宗道のこころ”の私事にわたりましたことを、ご了承下さい。教主としての助走を終えて、ますます真摯(しんし)につとめてまいります。