受け得たる我が本心をけがさずば
         千代万代も限りあるまじ(伝御神詠)

 黒住教立教の時である「天命直授」からほどなくして、教祖宗忠神は天の御命と申すべき2例の重要な御禁厭(お取り次ぎ)をおつとめになりました。

 ある日、外出先からお帰りになった宗忠神が目にしたのは、激しい腹痛に悶え苦しむ家人(お手伝い)のみき女の姿でした。「おぉ、可哀相に…」と駆け寄った宗忠神が、みき女の痛む腹部に思わず手を当てて御陽気を吹き掛けられた途端、たちどころに痛みは癒えてしまいました。これは、数日前に天照大御神より直授なさったご神徳を他人に取り次がれた最初の直禁厭(直接の祈り込み)であり、直ちに霊験が顕れた尊い出来事でした。

 宗忠神は、「これは私の徳ではなく、大御神様のご神徳なのだから、有り難うにいただいたらよい。何の不思議もないのだから、決して人に言いふらさぬように…」と、みき女に優しく忠告なさいました。

 口外を禁じられたみき女でしたが、翌朝元気に働く姿を見た近所の人から理由を尋ねられ、自分も不思議で仕方がないという思いと、宗忠神がいかに素晴らしい方であるかを黙っていられず、事の次第を話したのでした。

 そうでなくとも、近所の人たちにすると、正月明けには医者も匙を投げるほど重篤であったご自身の病気の全快といい、つい数日前の何日も笑い通された冬至の朝の出来事(天命直授のこと)といい、不思議なことが続いていただけに、ますます驚嘆の目を見張ったのでした。噂が急速に四方に広がるのは明白でした。

 宗忠神の御宅の隣村の竹通という集落から、眼を患った人々が助けを求めて来たのは、それから間もなくのことでした。村中で眼病が流行している惨状を聞きながら、「天照大御神のご神徳を果たして病気治しに用いてよいものか…」と悩んだ宗忠神は、一度はこの頼みを丁重に断っておられます。しかし、患者たちの懸命の願いと幼なじみの小野栄三郎氏等の取りなしもあって、宗忠神は竹通を訪れて御禁厭を施されました。

 忽ちにしておかげが顕れたのは勿論ですが、歓喜する人々の姿に、宗忠神はご神徳のお取り次ぎを天命と覚悟されたのでした。すでに天照大御神の大道宣布を決意していた宗忠神は、以後、一人ひとりへの直禁厭と心の用いようのお導きをなさるようになったのです。