傘寿の反省と忘れえぬ喜び

平成28年12月号掲載

 先日、何げなくテレビを見ていましたら、いわゆる認知症といわれる状況にある人への接し方を教えてもらうこととなりました。

 話し掛けるときは同じ目線でものを言い、決して上から下に向かっての物言いにならぬように気を付けること。また、椅子に座ったその人を立ち上がらせるときは、手を取るのではなくて、その人の腕の裏にこちらの手を回して抱きかかえるようにして立ち上がらせること等々、その方の人間としての尊厳をおとしめることのないようにすることの大事を訴えていました。当然至極と思っていることでも、さて自分自身に置き換えたとき、例えば私の母の晩年などにどれだけ私がその心くばりができていたかと振り返ったとき、忸怩たるものがありました。

 何か話し掛けられたときなど、どれだけ本気で耳を傾けていたかという反省です。忙しさにかまけて、また話の中味に端から興味のないことも手伝って、話し相手になることを避けていたように恥ずかしく思い出されます。

 去る5月9日、黒住教婦人会の第69回総会に併せて、戦後、婦人会を再結成した母千鶴子の十年祭を執り行っていただきました。息子としてまた教主としての感謝の念とともに、わびる心も伴った複雑な思いで霊前に頭を垂れました。

 考えてみますと、日常、家庭内はもとより社会生活で、どれだけ心くばりができているかと思います。

 皆が自分中心で、他をおもんぱかりその身になって行動することが欠けてきますと、実にギスギスした人間関係になってしまいます。

 話を折るという言葉がありますが、とかくその人の話を最後まで聞かず、自分が話すことに終始するなど、思いを致しますと、人ごとではなく私自身がどれだけ人様に不快な念を与えていたかと反省します。

 どのような話であれ、“そうですね”と受けとめ相槌を打つところから始まって、まずその人の話をよく聞く心を自分の中に持つことの大事さを、この歳にしてあらためて思います。自分の話を真しに聞いてくれる人というのは、当人にとってまことに貴重な存在でありましょう。

 さらに、その人と行動を共にすることの大切を思います。私は、御道の教師としてそのことを実感した、若い時の二人の方とのことが忘れられません。

 一人は中年の婦人で、家庭生活が破綻して持っていきようのない悲しみを抱えて、当時の本部である霊地大元の大教殿参籠室にいた人です。その頃、昭和36年2月、日拝に始まる御神前ご拝を終えた私は、宗忠神社、教祖記念館のご拝を終えてから、教祖神をはじめ歴代の管長教主様の奥津城にお参りすることを日課としていました。ある日、この婦人に声を掛け、私のこの朝のおつとめに同道してもらうことにしました。こちらから話すことはあってもこの人が口を開くことはなく、この道中は私の説教修行のような時間になっていました。2、3週間もたった頃だったでしょうか、いつものように奥津城に参拝の時、この人は教祖神の御墓にすがりつくようにして泣き伏しました。それは、肩をふるわせ声をはり上げての激しいものでした。この時をさかいにぽつぽつと胸の内を話すようになりました。後に、教師養成所である大元学院での百日修行を終えた頃には、豪快な高笑いで有名な“女先生”となり、教会所の所長もつとめ終えて生涯を全うしました。

 もう一人は、その頃ノイローゼという言葉でいわれた心の病を持った男の人で、あるお道づれに連れられて初めて大教殿に参ってきたのが縁で“日参”するようになりました。この人もなかなか心を開かない人でしたが、大教殿の毎日午前10時のご祈念の時間に参ってくるこの人とご拝が終わってから、教祖記念館に参ることを始めました。

 御神前に向かった下の間で、二人並んでお祓いを上げることを始めたのですが、私の横で声も出ずただ「お祓い本」を見ているだけの日が何日も続きました。しかし、欠かすことなく毎日参ってくるこの人を迎えては、共に座りました。蚊の鳴くような声ですが、私の何本も上げるお祓いについてくるようになり、これまた2、3週間たった頃でしたでしょうか、急に声を出してお祓いが上がり出して、私は平伏して彼一人がお祓いを上げている時が来ました。その声がだんだん大きくなったある日、嗚咽しながら泣きながらのお祓いとなりました。私はその時、御神前を背に彼の前に座り初めて“お取り次ぎ”をつとめました。肩をふるわせ、涙をぬぐおうともしないで両手を合わせて、私の祈りを受けてくれました。気がつくと私は彼を抱き締めていました。それから程なく、せきを切ったように心の内を話し出しました。私はその彼の姿が嬉しくまた有り難く、ひたすら聞かせてもらっていました。「さあ教祖の神様に御礼申し上げましょう」と言って共に高らかに上げたお祓いは今も耳底に残っています。

 それからの数日間は、晴れ晴れとした彼との楽しいお祓い修行でした。

 今から思いますと、それ以来55年余、御道教師としての私の土台をつくって下さったような二人の御霊安かれと祈る日々でもあります。