有り難さ積もり積もりて今日ははや
何と語らん言の葉もなし(今村宮へ御神幸の時、三代宗篤様詠)
明治18年(1885)の大元・宗忠神社ご鎮座の大感激冷めやらぬ翌19年に、一回目の御神幸が欽行されました。神として祀られた宗忠様を、ご在世中に奉仕されていた今村宮の御斎神にお引き合わせ申し上げようと、宗忠神の御神霊をお遷しした御鳳輦のお伴をして、今村宮への渡御が行われたのが始まりでした。それにしても、絢爛華麗な行列道具一切を、宗忠神社建立奉仕と同時進行で準備された、当時の先輩方の信仰の熱さには頭が下がるばかりです。
今月の御教えは、数えて39歳の若き管長(教主兼教務総長のような教団責任者)の三代宗篤様が「言の葉もなし」と感激・感謝の極みを詠まれた御歌ですが、三代様の報恩の御心は、翌々年の明治21年に挙行された「第一回伊勢萬人参り」として具現化されました。しかし、激動の教団黎明期を力強くお導き下さった三代様が翌年に卒然とご昇天になり、さらに副管長としてまさに全身全霊で三代様を支え続けた森下景端高弟が24年元旦に逝去、本教は大きな悲しみに包まれました。
この俄に出現した暗雲を吹き払うかのように、この年の御神幸から、岡山市中の多くの人々の要請に応えて御旅所が“天下の名園”の誉れ高い「後楽園」に変更されました。道中、お行列を出迎える町内毎で祭典が執り行われ、御鳳輦は御旅所に一晩安置されて、翌日も祭典を重ねながら還御なるという、二日掛かりの大行事であったと伝えられています。やがて、戦前から戦後にかけてしばらく中断を余儀なくされていたのが、昭和27年(1952)に戦後復興を祈る神事として、当時の先輩方の大変な努力で復活して今年で65回目です。
戦後の瓦礫の中に復活なった「御神幸という祈り」なればこそ、5年前の東日本大震災直後も厳粛に斎行されました。また、立教三世紀の幕開けであった昨年から、交通安全上の理由で道順が変更された結果、お行列は旧山陽道でかつてのお通り筋であった「後楽園通り」を進むことになりました。第1回欽行から130年の御神幸が復活65年という“おさまり”の良さにも感激しながら、ともに参拝・奉仕のおかげをいただきましょう。