満渡る道の誠の一筋に
         神の斎垣に入り来れ人(森下景端高弟詠)

平成27年11月号掲載

 “祭り年”を締め括る「大元・宗忠神社ご鎮座百三十年記念祝祭」が、厳粛かつ和気藹々の陽気に満ち満ちて有り難く斎行されました。

 今月の御教えは、祭典前に教主様が御親教の中で顕彰された神社ご鎮座当時の黒住教副管長・森下景端高弟の詠まれた御歌です。

 教祖神ご在世中、若き岡山藩士であった森下先生は、当時の厳しい身分制度を超えて多くの人々が教えを乞う黒住宗忠なる人物の真偽を確かめるために御会日に乗り込んだものの、一座の説教を聞いて大感激して、その場で教祖神に弟子入りなさったという実に剛毅で真っ直ぐなご性分の情熱家です。

 明治時代になると、新政府から初代の大分県令(知事)に任じられ、自らの信じる誠の道を治政の柱にして、大分県の黒住教布教に大きく貢献されました。

 明治9年(1876)に黒住教が別派独立を認可されるや、高弟は三代宗篤管長(現在の教主)を補佐する副管長に就任して、教団の基礎確立に献身されました。そして、教勢が大きく伸展するうねりの中に、教祖神ご降誕・ご立教・ご昇天の霊地大元に宗忠神社建立の議が起こった時、敢然と岡山市東部の丘陵地である東山を主張されたのが森下高弟でした。中央の情報に通じていた高弟ならではの、岡山の将来構想を考慮に入れた愛教心からの申し立てでしたが、大激論の末に三代様による御神裁の結果が「大元」と決定されると、残念無念の涙を流した翌朝、高弟は全財産の7700円の目録を三代様に捧げ、直ちに大元・宗忠神社建立を訴えて全国布教の旅に出られたのでした。

 明治13年(1880)7月に「神殿造営事務所」が設置され、30名の新築係員を中心に全国各地に新築世話係が任命されて宗忠神社建立がいよいよ具体的に動き始めると、自ら会計長という財務責任者になって三代様を支え、そして黒住教に尽くし切られた武士森下景端高弟に、心からの敬仰の誠を捧げるものです。