現代備前の旗手—隠﨑隆一氏

平成27年11月号掲載

  教主様とかねて親しい備前焼作家の隠﨑隆一氏が、平成26年度日本陶磁協会賞金賞を受賞されました。この賞は、陶芸界に大きな足跡を残した作家に授与されるもので、黒住教宝物館にその常設展示室がある故鈴木治氏も受賞しています。去る7月2日には、岡山市内において「隠﨑隆一さんの受賞をお祝いする会」が開かれ、また9月28日には東京で贈呈式が行われ、いずれにも教主様はご出席の上、祝辞を述べられました。

 公益社団法人である日本陶磁協会は月刊機関誌「陶説」を発行していて、その9月号の巻頭に教主様の隠﨑氏の受賞を祝う寄稿文が掲載されました。今号の「道ごころ」には、その御文を転載して紹介させていただきます。(編集部)

 私はかねて、備前焼には哀愁を帯びた旋律の如きものが流れているように感じています。申し上げるまでもなく、無釉の焼き締め、それだけに力強い感じを与えられる備前焼ですが、底に流れる憂いのようなものがあると思っていました。

 数年前、島根県の、現在は松江市になっている忌部という村を訪ねましたとき、インベは岡山にもありますよね、と言われ、今日は備前焼ですがかつては伊部焼と言われていて、事実、今も備前焼の町は伊部であることから、なるほどと思いました。

 出雲の忌部はまさにインベ=イミベで、はるか昔は葬儀葬祭を司る集団の住まう所であったようです。それは、人の死という悲しみからの穢れを祓い清め、神としての出立を祈る集団で、祈りの村であったひとつの証は、今に続く毎年10月に出雲大社の宮司が同じ松江市内の熊野大社に参るとき、昔はこの忌部の地で祓いを受けてから東上して参拝していたということからも伺えました。

 出雲の忌部の人の言う岡山の葬儀集団インベは、焼きものの集団伊部となるわけですが、私は備前焼に通底する哀調は“忌部”が元ではないかと思うようになりました。

 平安期から鎌倉、室町そして輝かしい桃山を経て江戸時代と受け継がれてきた備前焼は、明治以降、静かな時間が続いていましたが、再び三度の光を当てたのが金重陶陽氏らの先人方でした。とりわけ伊部の町にあって先駆的であった陶陽氏は、桃山時代を凌駕するべく努める一方、イサム・ノグチ氏等、当時の超モダンな芸術家方とも交流を深め、氏自身、ノグチ氏作と見紛うばかりの前衛作品に挑んでいました。私の知る限り、備前の伝統の上に立ってその枠を破って新しい分野を切り拓いた人は陶陽氏だと思いますが、それに続いたのは伊勢崎淳氏でした。

 隠﨑隆一氏は、大阪芸術大学でグラフィックデザインに始まって様々なジャンルの美に挑戦し続け、最終的に陶の世界に入り、その当時、常に新しい陶芸にチャレンジし続けていた前衛陶芸家集団、走泥社の鈴木治氏に惹かれたようです。走泥社の八木一夫氏、鈴木治氏らは戦後間もない頃から岡山との縁があり、それだけに備前焼にも通じていて、特に八木氏は、殻に閉じ籠りがちな当時の備前焼世界を舌鋒鋭く批判していました。彼のモットーである「いつも離陸の角度で」は、八木氏一人にとどまらず走泥社の精神でもあったと言えると思いますが、鈴木治氏も常に離陸の角度に身を置いた修行僧のような日々を重ねていただけに、隠﨑氏のいわゆる弟子入りも受け入れ難かったようです。

 その後、「伝統は革新の連続の上に成る」の心組みで作陶に専念していた伊勢崎淳氏を知り、氏の門を叩くことになったのでした。

 ところで私はかつて夏の隠岐島に行きました時、島の盆踊りに出合い、そこに流れる歌に、北海道のアイヌのまつり“カムイノミ”の歌にも似たもの哀しさを感じ、はるか縄文時代ともいえる太古の先人の行き交う姿に思いが巡りました。

 それは隠﨑氏の生まれ育った長崎の五島列島にも言えることで、この地に今に続く民謡は、まるでアイヌにまた隠岐にも似て得も言われぬ侘しさを湛えていて、しかし、明日を目指す力が感じられる調べとなっているように思います。しかも、これは隠﨑氏ご自身に尋ねたことでもありますが、隠﨑の隠は、隠れキリシタンから来ているのではないかということです。言うまでもなく、厳しい弾圧の下にそれだけ強固な信仰に生きた五島列島のキリスト者方は、先祖以来の悲しみを内に閉じ込めて月日を重ねてきたのだと思います。

 隠﨑氏の作品に共通する、力強くも堂々たる表情の底に流れる哀調は、備前の土を得て一層深まり、その分、人の心に強く響く作品となっているのではないかと拝察します。

 しかし仄聞しますのに、その道はなまなかのことではなかったようです。何しろ1000年に垂んとする歴史の伊部に舞い降りた隠﨑氏です。その上、何とか独立したものの初窯から悪戦苦闘の日が続きました。創造の創は傷つけるという意味があるそうですが、一人ぼっちで光の見えないこの歳月は、自らを傷つけそれだけ氏の奥深いところを耕し、人間隠﨑隆一を創り上げる天与のときとなりました。もがきながらもひたすら進み続けた氏は、備前にあって初めて見るような作品を次々と発表していきました。それは、伊勢崎氏はもとより、走泥社の方々にも見られない独自のものでした。

 ところで私は、200年前の江戸時代に、日の出を拝んで立教なった神道教団の六代目の教主をつとめる者ですが、毎朝日の出を迎える中に、夜の帷が深ければ深いほど刻々と近づく日の出を待つ時間が尊く、迎えた日の出の神々しさは言葉にならないものがあることを実感しています。六代前の、教祖になります宗忠の、死の渕という暗闇から這い上がるように本復なったのも日の出を拝むことが端緒でしたし、天地の太霊ともいうべき神と直結する働きを己れの心の奥深くに感得したのも、日の出を迎え拝む中でありましただけに、私どもにとりまして“日拝”は最も大切な祈りの時となっています。

 ここに立って見ますとき、備前焼の作家方の多くが、その窯の火入れに際して潮の満ち干の時間を見て火の神に祈って火入れし、窯焚きのあらゆる知恵と経験の上に立ちながらも、最終的には、火の神にすべてを委ねる心根を改めて尊く思うものです。またそこにこそ、備前焼の持つ精神性の高さもあると思います。

 その出自からして備前焼と符合した隠﨑氏が、いよいよ現代備前の旗手として、更に高みを目指していただきたく切に願い祈るものです。