有り難やこの大元に参りつつ
なおその上にお陰頂く
誠なる道の教えの大元に
参り集まる人ぞ楽しき(舩木甚市大人詠)
平成27年10月号掲載
いよいよ“祭り年”を締め括る大元・宗忠神社「ご鎮座百三十年記念祝祭」が斎行される平成27年10月を迎えました。
今月の御教えとしていただいた御歌は、安政3年(1856)の大明神号下賜にはじまり、文久2年(1862)の神楽岡・宗忠神社建立、明治9年(1876)の神道黒住派としての別派独立、そして明治18年(1885)の大元・宗忠神社ご鎮座、さらには黒住教教書編纂に至るまで、教祖宗忠神ご昇天後から明治期の本教の劇的発展に偉大な貢献を果たした大先達・舩木甚市大人の詠まれた感動と喜びに溢れた二首の“霊地大元讃歌”です。
舩木大人は、文化13年(1816)に伯耆国倉吉魚町(現在の鳥取県倉吉市魚町)で代々木綿や絣を扱う大問屋「清谷屋」の六代目として生まれ、当主として家業を大いに伸張させ、地元経済の興隆にも手腕を発揮し、晩年には「倉吉商工会」の初代会長を務めるほどの有能な経済人であると同時に、非常に熱心な黒住教信仰者であり布教師でした。
大人の黒住教入信は、数年来の肺結核に苦しみ喘いでいた安政2年(1855)、38歳の時でした。
ちょうど布教のために倉吉に滞在していた教祖神直門赤木忠春高弟のご祈念を勧める周囲の者に、「禁厭で病が癒えるなど…」と一切聞く耳をもたなかった大人でしたが、再三再四の勧めに舩木家番頭の伊藤定三郎を様子見に遣わしたのが正にご神慮でした。その日の赤木高弟の説教は、教祖宗忠神の祈りによって幾艘もの船が遭難を免れた、今に名高い御逸話「小串沖ご難船」の話でしたが、なんと海に放り出されながら九死に一生を得た一人が、伊藤定三郎その人だったのでした。
伊藤の報告を聞いて赤木高弟を招いた大人が本復のおかげを受け、舩木家一同が神文を捧げて教祖神の弟子入りをするのは、日ならずのことでした。
本教団の礎に、敬虔な祈りとともに破格の浄財をもって貢献された“至誠の人”舩木甚市大人への感謝を込めて、今月の御教えとして学ばせていただきました。
※大人-先生の意