宗忠神社ご鎮座百三十年の霊地大元

平成27年10月号掲載

 歳の所為にはしたくありませんが、今年ご鎮座130年を迎えた宗忠神社にあらためて思いを寄せる時、生まれ育った霊地大元における幼い頃の人間模様が鮮やかに蘇ってまいります。

 昭和12年9月18日生まれの私が、3歳と6日目の昭和15年9月24日、曾祖母眞壽刀自は88歳の長寿を全うして昇天しました。尤もこの日時等は長じて教えられたことですが、ご昇天直後の曾祖母のことは、今にはっきりと眼に浮かんでまいります。眞壽刀自は、出雲大社千家国造家から三代宗篤夫人として明治3年に黒住家に入り、折から明治新政府の推進する国家神道の枠組から、本教の別派独立に没頭される三代様を支えて筆舌に尽し難い苦労をなさいました。二男一女に恵まれましたが、ご主人の三代様がご昇天の時に四代宗子様は14歳でしたから、そのご労苦は並々ならぬものがありましたし、その四代様もご自分より先に逝かれ、さらにそれに先立って四代様夫人きよ様も亡くなられていて、孫の五代様を頼りにそのご成長に懸けた祈りの日々は独特の人となりをつくり上げていました。その徳を慕う当時の多くのお道づれから「ごいんさま(ご隠居様の略)」と呼ばれて仰がれていたのもむべなるかなと思います。

 この曾祖母の昇天は、強く心に残るものがあります。私にとりましていわゆる人の死、しかも身近な人の昇天は初めてのことでした。この日の朝、眠るように息を引き取った曾祖母は、その住まう部屋の御神前を背に、いわゆる北枕に寝かされていてその枕元に五代様そして私が座り、後の方に次々と人が正座していました。よく太っていらした父五代様は白いズボンをはいて座っていて、今から思いますと麻のズボンではなかったかと思いますが、ぽたぽたと落ちる涙がぴっちりと張ったズボンの上に見る見る広がっていったのが忘れられません。“みんなが集まっているのに、オバアチャンは寝ている……”と思って起こそうとしたのでしょう、私は「オバアチャン」と声を出して手を伸ばしました。すると父は私の手を押さえ、思わず見上げる私に「おばあちゃんは神様になられたのだ……」との一言。ほんの幼い私でも、その厳かさに打たれたのか黙ってしまったのを鮮明に覚えています。それは、人が亡くなるということは神様になるという尊い事実を、幼な心に焼き付けられた時でもありました。

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 中学生の頃だったと思います。宗忠神社の若い先生が、肺病の人の吐いた痰を食べたということを耳にしました。肺病、肺結核については子供ながらに敏感だった私には大きな驚きでした。

 と言いますのも、教祖神ご自身が肺病で瀕死の重体から、お日の出を拝んでおかげを受けて本復なられたということを、子供ながら知っていましたし、小学生の低学年の時に受けたツベルクリン注射の反応が陽性だった上に、6年生の夏に軽い結核だと診断されて半月ほど床に就いたこともあったのです。現在の霊地神道山の西隣にあります岡山県古代吉備文化財センターは、その昔、青年錬成道場でして、霊地大元も今の神道山も同じ御津郡内にあり、昭和24年8月、御津郡南部の小学校の6年生30名ばかりを集めての1週間の錬成会が開かれました。母校今村小学校からの数名と参加していた私は、その後微熱が続き、当初風邪かと思われていたのですが、結核の恐れありということで休むことになりました。おかげで事無きを得ましたが、私の中で肺病の二文字は大きくなっていたのです。それだけに、肺病患者の血痰を食べた人がいたということは大きな衝撃でした。

 それは、大元学院(現在の黒住教学院)における修行を終えた鈴鹿一磨という青年教師が、宗忠神社の在勤として実地修行中のことでした。毎晩宿直して朝の清掃そして献饌(御供え)、また夕拝と撤饌、拝殿の戸締まりを日課としていた頃のことです。毎晩、日付けの変わる12時頃に神社の正面階(階段)を上がった所の回廊に座って、お祓いを上げ続ける婦人がいました。この方は京都の人で、肺病で手の施しようがなくなった身を、死を覚悟して霊地大元に参って来て、教祖神の御元で最期を迎えたいの思いで参籠室に住まいしていた人でした。昼間の人の眼を避け、深夜になると神社でのお祓い修行につとめていたのでした。鈴鹿さんは、この事を知って以来、夜中に寝床を出て白衣に着替えこの婦人と並んでお祓いを上げていました。

 ある夜、鈴鹿さんはお祓いを上げている時、この人に「肺病は宗忠の神様にお供えしてしまいなさい!」と厳命するように言い放ちました。するとこの婦人は、着物の懐からゆっくりと二つ折の新聞紙を取り出して差し出しました。そこには、今吐き出したような生温かい血痰の固まりがありました。鈴鹿さんは、思わずその血痰を食べてしまったのです。驚きと感動でカッと眼を見開いたこの人は、しぼり出すような声で泣き叫びながら正座した鈴鹿さんの膝に泣き伏しました。その背中に手を当てこれまた叫び上げるような声でお祓いを上げ、やがて熱い息吹をもってお取り次ぎに専心した鈴鹿さんでした。

 ものすごい人がいるものだと驚き感心し、成人してから鈴鹿さんご本人から事の経緯を聞いて知った私です。黒住教の教師たる者は、全身全霊でもって悩み病み苦しむ人のために祈り尽くすものだということを、子供心に教え付けられた尊い一事であります。

 後に聞いたことですが、有り難いことにこの婦人は、この時を神機におかげをいただいて元気を取り戻し、京都の自宅に帰ったということでした。

 なおこの鈴鹿さんは、その後、縁あって群馬県の高崎教会所の藤原増子さんと結婚して藤原一磨となり、所長として御道人生を全うされました。

 その長男正和君は父一磨命の所長職を継ぎ、この記念の年の今年4月からは東京大教会所所長として、父親ゆずりの熱い心で日々つとめてくれていることも有り難いことです。