川崎学園新入生への講話 – 創立者川﨑祐宣先生のこと –
平成27年7月号掲載学校法人川崎学園(岡山県倉敷市)と本教とは、同園の創立者川﨑祐宣先生と五代 宗和教主様とがご親友であられたことから、長いご神縁をつないできています。今日では毎年、川崎学園の御日拝参拝を中心とした新入職員研修が神道山で開催され、教主様にはご講話をおつとめです。
また、学園の川崎医科大学、川崎医療福祉大学の新入生に対するご講話も毎年おつとめで、今年から医療短大も含めた全学の「川崎学園 入学時合同研修2015」が開催され、4月11日、教主様は1500余名の学生の前に立たれました。今号の「道ごころ」には、その講演要旨を紹介させていただきます。(編集部)
本学園を創立された川﨑祐宣先生と私の父五代教主とは、世に言う肝胆相照らす仲でしたことから、私は子供の頃から川﨑先生を仰ぎ見るような思いでおりました。
父は、川﨑先生の患者のために献身する日々、次々と自らに課す大きな課題の達成に挑みチャレンジされる御姿に心から敬服していました。
川﨑先生は、弱い人困っている人を見ると放ってはおけない、それを見過ごすならばそういう自分を許せない男気のような熱いものに満ちた方であられたと私は思っています。事実、昭和14年(1939)に創設開院された岡山市の川崎病院では、ここを先生の住まいにもして、率先垂範して「患者のための医師」「患者のための病院」であり続け、「年中無休、昼夜診療」を貫かれました。
今日、ドクターヘリに象徴される救急医療の全国の草分けが川崎医大であることも、この川崎病院における川﨑祐宣先生の日々が元となっているのです。川崎病院は現在、川崎医大の附属病院として先生のお孫さんの川﨑誠治理事長のリーダーシップのもと、着々と新築工事が取り進められています。そこはかつての岡山市立深柢小学校跡地で(明治の初め本教教師河上市蔵が老子の深根固柢から命名した)、その名の通り地下15メートルの基礎工事に1年間かけ、15階建ての新病院は来年8月に竣工いたします。ここにも川﨑祐宣先生の精神が脈づいていることを尊く思います。
この学園の新入生として皆様方は、それぞれの分野における基礎学力を身に付けることを忘れないでいただきたい。わが国では古来、能狂言をはじめ茶道、武道の世界で、守、破、離ということを申します。守とは定められた基本を守ること、基礎の大事です。破とは、定められた枠を破って個性を発揮すること。離とはすべてを離れて自由自在に行動しても道にかなっているという名人の境地です。
川﨑先生は、外科医としてメスを持ってのお仕事にまさに昼夜を分かたず務められる一方、病を持った患者という人間の心を常に忘れないお医者様でした。川崎病院は昭和30年代には800床のベッドを持つ、私立の病院では全国最大になっていましたが、先生は努めて病室を訪ねられて患者さんに声を掛けることを怠りませんでした。それは医療の〝守〟を貫かれたのです。堂々たる体躯の悠揚迫らざる御姿、しかもやさしいまなざしでおおらかなお声でもって語り掛けられる先生に、患者の病気の〝気〟は振り祓われ、にこにことして先生に感謝の声を発するのでした。
「川崎病院に行けば何とかしてもらえる。川崎病院の先生はやさしい……」の声は人から人へと伝わり、瀬戸大橋も高速道路もない当時、海を越えて四国から、山を越えて山陰から雲のように患者は押し寄せていました。
そのような川﨑先生にして、何とも手の施しようのない患者さんが、身に障がいを持った人たちでした。医師として何もできないご自分を叱咤するかのように、まさにやむにやまれぬ思いで立ち上がって創設されたのが、今日の社会福祉法人旭川荘です。昭和31年のことです。今では質量ともに全国一、いやアジア一の医療福祉のセンターとなっています。
また、患者の心を大切にする医師の養成の急務を痛感した先生が、これまたやむにやまれぬ思いで創設されたのがこの川崎医大であり、医療短大、リハビリテーション学院です。岡山市の川崎病院を扇の要に、片や福祉の旭川荘、片や医療の川崎医大、そして両者がドッキングするような形で誕生したのが川崎医療福祉大学です。現在、全国に医療福祉大学は次々とありますが、これだけの医科大学と福祉施設をバックにしたのはこの川崎医療福祉大学だけでありましょう。
ここに川崎ワールドともいうべき一大医療福祉の世界が誕生したのです。
ところで、ちょうど50年前の昭和40年の今頃、私は去る3月にお亡くなりになった旭川荘の江草安彦先生のご指導を得て、重症心身障がい児のための施設づくりのためのキャンペーンを張っていました。一人の身で三重四重の重い障がいに苦しむ人たちが全国に35000人もいるのに、その人たちの施設は東京と滋賀県の大津にしかなく、旭川荘にぜひ造ろうということで、中四国一帯で運動を展開していました。幸い重障児を持つ3人のお母さん方がその日常生活を写真や映画フィルムに収めることに同意して下さり、おかげで多くの方々が知るところとなりお力添えをいただき、翌々年の昭和42年春に、旭川児童院として結実したのでした。
そういう中で重障児に教えられることが数々ありましたが、中でも数年前のことです。旭川荘における役員会を終えての見学の時、私は児童院を訪ね、案内されていく中に「シゲコ」との名札を見付けて数人の役員の方々とその病室に入りました。シゲちゃんが昭和40年にフィルムに収まってくれた時は7歳。昔と同じ寝たままで、寝返りもできず目も耳も足も機能せず手がかすかに動く程度。言葉もありません。無表情な彼女に一方的に私が話し掛ける中で、「シゲちゃん、お母さんケガして久しく来られてなかったけど、松葉杖ついて歩けだしたからもうすぐ来るよ」と言いました時、シゲちゃんは顔を紅潮させ全身をねじるようにして動かして喜びを表しました。感動しました。
それは、人の心の奥に鎮まる本体の働きを教えられた時でした。
川﨑祐宣先生が患者さんにやさしく、患者のために徹した医師の道を貫かれたということに、人間の本体に通ずる、人としての本道を歩まれた証を見るものです。
日進月歩の現代医学の世界です。頭脳を鍛え学び、医療福祉の技を身に修めることは当然のことです。しかしそこに止まらず、人間の本体を見据える医療福祉の人であっていただきたく心から願います。