黒住教立教200年記念対談
より心豊かに生きるために(上)

平成26年9月号掲載

 去る6月18日、教主様は、6月1日に山陽新聞社代表取締役社長に就任した松田正己氏を教主公邸に迎えて対談されました。その内容が、6月28日付山陽新聞朝刊に、「黒住教立教200年 記念対談」と題して掲載されましたので、今号と次号の「道ごころ」に転載して紹介させていただきます。

 なお、同紙では、7月27日に「立教二百年記念特集 歴史編」と題するページを、また8八月24日には「三大霊地・祭事編」を掲載しました。さらに、9月21日、10月5日にも本教を紹介する同様のページを予定して下さっているとのことです。(編集部)

 岡山市北区尾上の神道山に本部を構える「黒住教」は今年、立教200年を迎えた。
黒住教は岡山藩主池田家の守護神社・今村宮の神官であった黒住宗忠(1780~1850年)が1814(文化11)年11月11日(旧暦)に立教した、幕末三大新宗教の一つ。立教以降、黒住教は福祉活動、文化活動、宗際活動にも一貫して力を注いできた。200年の歴史を振り返るとともに、黒住教の社会貢献活動が果たしてきた役割について、黒住教六代教主・黒住宗晴氏に山陽新聞社の松田正己代表取締役社長が聞いた。(文中敬称略)


教祖・宗忠と黒住教の歴史

 松田 立教200年おめでとうございます。仏教の各宗派の開祖と違い、日本人を教祖とする宗教が200年を迎えた例はほかにないと伺いました。六代教主としてどのような感慨をお持ちですか。

 黒住 黒住教は日の出を拝む「日拝(にっぱい)」の宗教であり、感動と感謝の心で、人に社会に誠を尽くすことをつとめとしています。200年の重みをあらためて感じたとき、次のことを思い起こしました。まず日本人は昔からお天道様が大好きで、朝起きたら東の空に向かって柏手(かしわで)を打つところから一日が始まりました。そして日本人には古来、神に祈る言葉「祝詞(のりと)」があります。この二つにして一つの伝統の上に、教祖宗忠の「日拝」は生まれたということです。

 松田 教祖宗忠は神職の修行に励んだ後、宗教的神秘体験を得るに至ったと伝えられています。

 黒住 宗忠は明日をも知れぬ重篤の身でしたが朝日によって生きる力を取り戻し、自身の誕生日でもあった文化11年11月11日(旧暦)の冬至の朝、日の出を拝んで天照大御神(あまてらすおおみかみ)と自身が一体になる境地に達しました。これが「天命(てんめい)直授(じきじゅ)」と呼ぶ、黒住教立教の時です。教祖は「人間は、あらゆる命の大元である天照大御神の分霊(わけみたま)をいただく神の子である」という人間観を貫きました。

 松田 教祖の没後、1862(文久2)年、孝明天皇の勅願により京都神楽岡・宗忠神社、1885(明治18)年には、教祖生誕・立教の地である岡山・大元に宗忠神社が建立され、教団として発展していきます。

 黒住 京都で布教していた高弟・赤木忠春が孝明天皇のお后(きさき)を病床から救ったことなどから、孝明天皇のご信仰が深まり、教祖に「大明神号」が下賜され、御所には日拝所までつくられました。本教が公武合体、開国維新とわが国の存亡にかかわるところで生き続けたことには特別の感慨を覚えます。

 松田 幕末から明治の時代には厳しい局面もあったようですね。

 黒住 明治政府によって神道系宗教団体はすべて国家神道に所属させられたのですが、三代教主宗篤は「人の心まで政治が規制することは、国の将来を誤らせる」と訴え、大運動の末に別派独立。後に続いたのが金光教、天理教です。

(つづく)


山陽新聞6月28日付より
対談は教主公邸において行われた(6月18日)