高弟森下景端先生のこと

平成27年1月号掲載

謹賀新年

 昨年の立教二百年大祝祭を、共に有り難く斎行させていただきましたことを、ご同慶至極に存じ、あらためて共に教祖の神様に御礼申し上げたく思います。

 そして、今年秋の大元・宗忠神社ご鎮座百三十年記念祝祭を、共に有り難く迎えたく願います。

 大元・宗忠神社と申しますと、私にとりまして大きな存在は高弟森下景端先生です。

 先生は御道信仰の深いことはもとより、豪毅(ごうき)なともいえる武人魂と情熱の人でありました。

 なにしろ、その入信の動機からして特異です。岡山藩の武士仲間方が、二(注)・七の御会日毎(ごと)に次々と教祖神のお説教を拝聴に中野(今の大元)に足繁く通っている上、家老の伊木長門守(ながとの み)にいたっては、教祖神をお屋敷に度々お迎えして下へも置かぬ丁重さで、門人としての礼を尽くしているのを不本意に思っていた森下先生でした。

 自分自身が二・七の御会日に乗り込んで、何か教祖神の揚げ足を取ろうとしたのが、逆に教祖神のご人格とほとばしり出るようなお説教に引き込まれ、その場で入門した方でした。

 先生は、岡山藩士として江戸時代末期にその力量を存分に発揮するとともに、明治時代になると大分県令(知事)として敏腕を振るわれました。晩年の先生の述懐として次のような一言が残っています。

 「予(よ)(私)の世に処するや、軍事といわず行政といわず、全て黒住の教えに遵拠(じゅん きょ)して誤りなきを得たり」。

 特に大分県令時代のエピソードはユニークです。

 森下先生は、今日(こんにち)ではありえないことですが、県令の立場にあって大分県内各地に教会所を創立させていきました。それは部下に始まり縁ある人たちに道を説き、あるいは病み苦しむ人にご神徳を取り次いで助け、次々とお道づれを生み育てられました。

 森下先生在任中のある日、県令室に地元の神主さん方が面会を申し出て来ました。その代表の方の言です。「県令閣下、貴殿が黒住教を布教されることをとやかく言うわけではありませんが、つい先ほどまで畑で肥(こえ)(肥料にする糞尿(ふんにょう))をまいていた者が、私どもと同じ装束姿で神前に上がるということはいかがなものか」。先生曰(いわ)く「では尋ねるが、びろうな話だがあなた方は便所で用便をしたあと何でふくか。紙だろう。その紙の厚さと肥をまく柄杓(ひしゃく)の柄(え)とどちらが長いか」。これには神主さん方も二の句が継げられず大笑いになったということです。

 森下先生は、大分県令を退(ひ)いてからは副管長として三代宗篤管長(教主)を支えられました。

 中でも特筆すべきは、130年前の宗忠神社ご鎮座にまつわる先生のご活躍です。

 その頃、岡山には山陽鉄道(現在のJR山陽線)という名のもとに、京阪神戸から西に伸びる鉄道の敷設(ふせつ)計画がありました。当初その線路は、西大寺の街(現岡山市東区西大寺)を経て現在の護國(ごこく)神社鎮座の地にトンネルで抜けて出て、今の市電の終点東山の辺りに岡山駅を作る計画があったようです。大分県令までつとめた森下先生でしたから、いわゆる情報が入るのが早かったのでしょう。将来の交通の便を考えて、宗忠神社建立の地を東山の一角にと訴えられていました。

 教祖神ご降誕、ご立教の地大元か、東山かと侃々諤々(かんかんがくがく)の議論の末、今日の教祖記念館の御神前における三代様の御神裁(ごしんさい)の結果、宗忠神社ご建立は大元と決定されました。その夜、東山説を唱え推進してきた同志と残念無念の涙を流した森下先生は、翌朝、教祖記念館の御神前で三代様にその全財産の7700円の目録を捧(ささ)げ、直ちに大元・宗忠神社ご建立を訴えて全国布教の旅に出られたのでした。

昨年の立教二百年の年はまた神道山ご遷座40年の年でもありましたが、神道山ご遷座に至るまではまさに紆余(うよ)曲折(きょくせつ)がありました。岡山市の土地区画整理事業で、霊地大元の直前を南北に大きな道路が横切るなど、大元周辺の大変貌が予想されていただけに、教団本部は当初大元の裏地の購入に努力していました。そういう中で、東山の、今は護國神社が鎮座する土地の東側の広大な丘陵地が、新たな教団本部としての候補地に上がりました。心動かされたのは素晴らしい場所であることもさることながら、東山は、森下景端先生が宗忠神社をと定められた地ということでした。

 今から思いますのに、昭和42、3年のその頃、この東山に大教殿をという動きがなかったら、今日の神道山へのご遷座もなかったのではないかとさえ思います。霊地大元を措(お)いて他に教団本部はないとの、多くの皆さんの強い思いの重い腰を持ち上げてくれたのは、この“東山”だったのです。

そういう意味でも、森下先生は生きてお働き下さったと私は今も確信しています。

私が森下先生に心ひかれるところのもうひとつは、ご令息ご昇天の時の先生です。

 生来病弱だったご令息は、先生が各地の教会所を巡っているさ中に亡くなられました。走り帰った先生は、すでに冷たくなったわが子を抱きしめ、男泣きに泣きながら叱りつけられました。「なぜ親より早く逝った!」。その号泣と怒声は、周囲の人々の新たな涙を誘いました。しばらく泣き続けた先生はご遺体をやさしく床に寝かせると、つつっと後へ下がって忍び手で拍手して平伏し、「弱い身でよくぞ生き抜いて、私たち両親を楽しませてくれた……」と嗚咽(おえつ)しながら語り掛け、しばらくするとその声は朗々たるお祓いの奏上となったのでした。

御道びと、そして快男子森下景端先生を崇(あが)め敬う所以(ゆえん)です。

大元・宗忠神社ご鎮座百三十年の元旦に、あらためて森下景端先生に思いを馳(は)せ御礼申し上げることです。

注)
二・七の御会日 教祖神のご在世中、月の中、2と7のつく日、すなわち月に6日、教祖神の御宅で直々のお説教がなされていました。それはまた、二・七の日は岡山藩の武士の定休日でありました。