神文捧呈(しんもんほうてい)の有り難さ

平成26年5月号掲載

 立教二百年のこの年をよき機会と、教祖神に神文を捧(ささ)げる方が次々とあります。まことに尊く有り難いことです。

 神文といえば、江戸時代の末期、ご鎮座間もない京都神楽岡・宗忠神社において神文捧呈して入信した、三條實美(さんじょうさねとみ)公の神文書が有名です。

 そこには次のようにあります。

 「神文の事 かたじけなくも天地(てんち)同体の一心動かすべからず よって謹(つつし)んで神文奉(たてまつ)るものなり 宗忠大明神に奉る 文久二年三月二日 三條實美」(読み下し)。

 動乱の幕末、孝明(こうめい)天皇をお支えする公卿(くぎょう)方の中で、日本列島に次々とやって来る外国と戦って追い払うことを主張したいわゆる攘夷論者(じょういろんしゃ)の最たる存在であった三條公は、同志6名ともども長州(ちょうしゅう)(山口県)へ追いやられています。歴史上有名な「七卿落(しち きょうお)ち」です。しかし三條公は、明治の時代になって復活し、後に明治の元勲(げんくん)と称(たた)えられるほどの活躍をして、その昇天に際しては国葬の礼をもって送られています。

 このことは、今に伝わる直筆の神文の文面と筆力に伺える、三條公の真摯(しんし)で真剣な信仰心が、教祖神に通じご守護いただいたゆえでありましょう。

 このように、教祖神に神文を捧呈して入信した方は数え切れませんが、その最初の人々は、教祖神の最も身近な方々でした。第一号といえる方は、教祖神の御宅近くの幼い頃からのご友人で、しかも教祖神より1歳年長の上中野(かみなかの)村の名主(なぬし)小野榮三郎氏(小野盛孝吉備楽楽長のご先祖)です。

 文化11年(1814)11月11日(旧暦)の、天命(てんめい)ご直授(じきじゅ)後ほどない翌文化12年正月に、「黒住先生様」と記して次のような文面の神文を捧呈されています。

 「このたび聖道ご伝授下させられ向後(こうご)ますます本心をぬきんでて御教えをあい守り申すべく候(そうろう) あい背(そむ)くにおいては 日 月 星の御罰こうむるべきものなり よって神文件(くだん)の如(ごと)し」(読み下し)。

 続く2人目は、同じこの年6月に神文捧呈した末廣千吉氏(現荒木組=本社岡山市=社長荒木雷太氏ご先祖)です。末廣家は、黒住家の代々が神職としてお仕(つか)えしてきた岡山藩の守護神社今村宮の氏子総代をつとめた家で、末廣氏は小野氏と同じように、教祖神が一神職として今村宮におつとめの頃から近しい方でした。このように教祖神を幼い頃から存じ上げている方々が、ご立教早々に神文を捧呈して入信されていることは、まことに尊く有り難いことです。

     ○          ○     

 神文を捧げて入門した人々は、「神文衆(しんもんしゅう)」と呼ばれました。弘化4年(1847)に、時尾宗道高弟が序文を書かれた「門人(もんじん)名所記(などころき)」(入門した人々の名簿)ができましたが、神文捧呈の千余名の方々の名前が年号と共に記されています。

 教祖神のもとに集う人々は「お道づれ」と称されていました。「旅は道づれ世は情け」の道づれからのものでしょうが、

 「天照大御神のお膝(ひざ)元(もと)までご案内いたす。皆々様ついて来なされ」とお呼び掛けになる教祖神に導かれて、天照大御神の生々の大道(たい どう)を、共に歩む道づれという意味で生まれた「お道づれ」であります。

 教祖神のご昇天後、ほどなく展開された赤木忠春高弟、時尾宗道高弟等7名の高弟方の大布教によって入信、入門した方々は、みんな神文を捧呈して教祖神とのご神縁を結びました。

 お道信仰をさせていただくと心定めした時、神文を捧呈して、教祖神とのご神縁に結ばれて、ここにおかげを受けるしっかりとした道が確立されます。そして、教祖神の御心を尋ね、そのご一生を貫かれた祈りを基とした、神に人に“奉仕の誠”を尽くされた御日々を、時代も場所立場も異なろうとも、今日(こんにち)、その生き方を学びわが人生にしようとするところに、お道づれとしての誇りと大きな喜びがあるのです。

     ○          ○     

 私たちは、教祖神に神文を捧げますが、実は教祖神も神文を捧呈されています。それは文政7年(1824)5月のことです。

 この年3月12日に出発して伊勢神宮に向かわれています。まず、京都の吉田神社に参り(その当時、吉田神社は全国の神社の事務本庁の役を担(にな)っていた)、今村宮禰(ね)宜(ぎ)職の辞令を受け、「左京宗忠」とそれまでの右源治からご改名になっています。今日に伝わる御真筆御神号にある「黒住左京藤原宗忠」が定まった時です。この時の様子は、教書に収録されています「伊勢参宮心覚(こころおぼえ)」に詳(くわ)しいですが、吉田神社から現在ご鎮座の宗忠神社の境内を通って(この時から38年後の文久2年に吉田神社から境内地を提供されて宗忠神社はご鎮座)伊勢神宮に向かわれています。4月9日にご帰宅になって、ご生涯6度の参宮の2回目を終えられていますが、翌月の5月、天照大御神様への神文を捧呈されています。

 「神文の事。一つ祈誓し奉る 二たび神宣(しんせん)を蒙(こうむ)り奉り……」との神文書です。

 本教立教の時である天命直授から10年目、今一度あの大感激、大歓喜の時を賜りたいとの大願を立てられての神文捧呈です。その上に立って、翌年文政8年7月23日からの「千日参籠(さんろう)」を始められています。悟後(ごご)の修行といわれる今村宮での千日ご参籠ですが、すでに教祖として日々のおつとめに加えて、夜は今村宮に籠(こも)られての「お祓い修行」が千日続いたわけです。

 このような教祖神とのご神縁に結ばれる神文捧呈は、本教お道づれにとって大きな安心と喜びの元です。

 自分自身にとって大きな節目の時、新たな決意、決心をする時、あらためて神文を捧呈して新たなご神縁を得ておかげをいただこうとする「再神文」捧呈は、先輩方も次々とつとめられてきました。

 先代教主五代様は、昭和18年3月3日に再神文を捧呈されていまして、その神文書は大教殿御神前の御内陣に今も御供えされています。時は先の大戦のさ中、管長(現在の教主)としての重責を全(まっと)うできるべく、教祖神の新たなご守護を願い、管長としての誓いを立てられています。

 立教二百年の今年、新しく神文を捧呈される方はもとより、この記念の年に再神文を捧げて教祖神との新たなご神縁をいただこうとされる方は、まことに有り難いおかげを受ける方です。

 なお、私自身は、今年9月18日の満77歳の誕生日の朝、御日拝後に大教殿御神前において神文式を執り行うことにいたしております。