慢心について

平成26年4月号掲載

慢心は道をつとむるいとまごいこころしずめて道をこそふめ

 (いとまごい=暇乞い=別れを告げること。ひまをくれるように願うこと。)
という御歌が、本誌の表紙を飾ったことがありますが(平成24年7月号)、古来、慢心したために信用を失い、また人の憎しみさえ買って人生を損なった例は枚挙にいとまがありません。

 教祖神はこの御歌にとどまらず、御七カ条の第三条において慢心を諌(いさ)められるとともに、随所でこの心の危うさをご忠告になっています。教祖神直々の高弟の代表的な二人、赤木忠春高弟と時尾宗道高弟に与えられたひとことは、その象徴的なものです。

 赤木先生は、今日(こんにち)いうところのやる気に満ちた自信満々の方でした。自らの8年間の盲目が、しかも祈って目が明くなどありえないと、はなから信仰の世界を否定していた考えの人でしたのに、教祖神の一度のお説教を拝聴して大感激してその瞬間に教祖神の御(み)姿を見ることができ、ついに開眼のおかげをいただいた信仰体験の持ち主だけに、その信仰は筋金入りでした。自ら体験したお道の「ありがたさ」を元に、多くの人々を助け導き、ついには時の帝(みかど)孝明天皇の御前でお道の教えをお話し申し上げる光栄に浴し、京都神楽岡(かぐらおか)に宗忠神社ご鎮座を果たしたような方ですから、その信仰心そして人となりは格別でした。実に激しいばかりの情熱と信念の人でありました。

 これは言うまでもなく赤木先生が京都に向かわれる以前のことですが、このような赤木先生の特質は高く評価されていた教祖神ですが、ある時、
 「赤木さん、慢心は怖い。慢心は命を取りますぞ」とご注意なさいました。このお言葉を有り難くいただいた赤木先生は、自らの日常生活を反省し、つとめて謙虚な態度で人に接するようになりました。そうしたある日、「有り難い御教えをいただき、私も慢心の恐ろしさは十分骨身に染み込みました。今後は慢心ということでご心配をお掛けすることはございません」と教祖神に申し上げた時、「それは有り難い」と拍手を打って「どうぞこの上は、人から慢心させられぬよう、くれぐれもお気を付けなさい」と、優しくしかし強くだめを押すようにご警告になったのでした。

 一方、赤木先生とは対照的に、物静かな控えめで、いわば熱い信仰心を胸に深く湛(たた)えた時尾先生には、「慢心の“とぎわ”までいかないと大きな仕事はできません」と諭(さと)されています。自らの信念、信ずるところは堂々と発言し、もっと行動できる人物になるようにと期待を込められています。事実、教祖神ご昇天後、時の都である京都布教に向かった赤木先生をはじめ布教の第一線に立った7名の高弟方の中で、もっとも静かでおとなしいと思われていた時尾先生が、兵庫県一円の布教を地道にこつこつと努め、今日の兵庫県下の教会所、お道づれの元をつくられているのですから、その信仰心、行動力には並々ならぬものがあったことが分かります。

 私はかねて自信と慢心の違いは、謙虚さという裏打ちのあるのが自信で、謙虚さのない、糸が切れた凧(たこ)のように地に足がついていない高揚が、慢心だと思い自戒してきたつもりです。

 ここで私の恥話を書かせてもらいます。
昭和35年の暮れ近く、学生生活中に何かと目をかけて下さっていた恩師を訪ね、いよいよ京都を引き上げて岡山に帰るご挨拶(あいさつ)を申し上げました。すると先生は、「教団の皆さんは君に円満な人となりを求めているだろうが、今の君はあまりにも角(かど)がある。このままで帰るといろいろ摩擦を起こすことになるだろう。と言って、私は角を取った丸さはよしとしない。それでは小さな丸になってしまう。コンペイ糖を見てみたまえ。突起があってゴツゴツしているが、あの突起をどんどん出してゆけば大きな丸になる。どうか角を取るのではなくて、角をどんどん出して大きな丸を目指したまえ」とのお言葉をいただきました。

 翌昭和36年の正月、寒修行から私の白衣の生活は始まりました。大元で生まれて高校卒業まで育ち、今にわが家というと夢の中では教祖記念館の私ですが、白衣を着けての大元はまさに霊地大元でした。肩にかかる重さ、わが思いと現実とのギャップ、自分で自分を律し切れないもどかしさもあって、周囲の皆さんにご迷惑を掛ける言動が続きました。

 そうしたいわばうっ憤を吐き出すように私が話すのを聞いてもらっていたのが、日新社にいらした杉本青山という長老の先生でした。若き日、地元の新聞社で健筆をふるっていた青山先生は、ひたすら私の話を聞いて下さっていましたが、ある時、「思いの丈おやりなさい。小猫は障子を破ったり畳をひっかいたりしていなくては、大きくなってねずみをよう捕りませんから」とぽつり。なんと自分は小猫並みか、とあんぐりするとともに、何か肩の力が抜けて爽快な気分になったのが忘れられません。私にとってひとつの慢心にも似た思いを、青山先生は柔らかくほぐして下さったのでした。

 要は、五代様が度々ご忠告下さりよくお話しになっていた「おれがおれがのがの字を捨てて、おかげおかげのかの字で暮らせ」に尽きることを、今にして思います。

 教祖神は、重病の患者がおかげをいただいて本復したり、有り難いおかげが現れたことを感動をもって次々と書き残されていますが、「小子(しょうし)(私)の手がらにはござなく、みな天照大御神様の御影(お かげ)と存じ奉り候(そうろう)」(御文242号)等、決して自分の力ではないと度々仰(おっ)しゃっています。それどころか「天よりは有り難き道を得ながら、行(おこな)いつたなきこそ心外にござ候。……かほどまで明らかに天より教えを請(う)けながら、身の勤めそのわりに相成り申さず……」(御文39号)と、御自らにまことに厳しい日々を重ねられています。

 ご神徳を取り次ぐという生きたお働きと、自らを鍛え養うという二つのことを一つに生き抜かれたことに、あらためて敬服します。