黒住教立教二百年の重み

平成26年2月号掲載

 昭和28年(1953)に岡山市に開局したRSK山陽放送ラジオは、開局以来毎年、その元旦放送の第一声として、五代宗和教主様の「新春を寿(ことほ)ぐ」とのご挨拶(あい さつ)を放送するのを恒例としていました。同49年(1974)からは現教主様が同放送を受け継がれ、今年も放送されました。今号の「道ごころ」には今年の元旦放送「新春を寿ぐ」を紹介します。 (編集部)

 数年前のことですが、ある宗教学者の方から、日本人を教祖とする宗教が立教二百年を迎えるのは初めてのことですね、と言われました。私は数ある古い歴史の仏教教団の教祖のことを申しましたら、あの方たちは教祖でなくて開祖で、教祖のブッダ、お釈迦(しゃ か)様はインドの方ですからとのことで、一層、黒住教立教二百年ということの重みを感じたことでした。

 実は、200前の1814年、それは文化11年11月11日、もちろんその頃は当時の陰暦ですが、この日は冬至の日で、この日に黒住教は誕生しました。申し上げるまでもなく、冬至の日は夜が最も長くて昼の時間が短く、この日から日一日と昼の時間が長くなっていくことから昔より「陰極まって陽に転ず」とか「一陽来復(いちようらいふく)」と言って、わが国にとどまらず地球上の北半球の各地域では古来特別の日とされていました。しかも、黒住教の教祖となる黒住宗忠はこの日が誕生日でして、家代々の岡山藩の守護神社である今村宮という神社の神職の家に生まれていましたから、格別、冬至の日の意味を深く感じつつ成長していました。

 実は、黒住宗忠はこの年文化11年の正月すぎには肺病のために瀕死(ひんし)の状態にありました。子供の頃から親思いのいわゆる親孝行の人であっただけに、両親の流行(はやり)病によるしかも相次ぐ死のために、悲しみのどん底に陥り、ついには肺病を患って病の床に伏す日が続いていました。

 いよいよ死も間近と自覚した宗忠は、その年1814年1月19日、子供の頃から両親と毎朝手を合わせていたお日の出の太陽に別れを告げるべく、東の空の拝める縁側に家人に連れ出してもらいました。過ぎし日をしのびつつ迎えた穏やかなお日の出に、両親の心そのものを見た宗忠は、強い衝撃のうちに自らを省みて、このまま死んではならぬ、せめて心だけでも両親に安んじてもらえる心に立ち戻らねば死んでも死にきれない、との思いにかられました。人間の性(さが)の素晴らしくも有り難いところですが、心が陰から陽に、陰気から陽気に向かうと苦しみの中にも喜びが、嬉(うれ)しいこと、さらには有り難いことが見えてくるもので、それにつれて心が生きてくることです。宗忠は一息できればそれだけ長生きができ、両親に喜んでもらえると思うようになり、一息一息に感謝しつつ明るく喜べるようなことを探し求める日を重ねました。すると、宗忠の病状は日々に薄紙をはぐようによくなっていったのです。

 後に詠んだ宗忠の歌に「有り難きことのみ思え人はただきょうのとうとき今の心の」とありますが、まさにこの歌そのままの心で懸命に生きたのでした。毎朝日の出を拝んで心を陽気に“有り難うなる”ことに努めた宗忠は、3月19日の日拝において全快のおかげを受けるに至りました。陰から陽への心の大転換は、“体の奇跡”のおかげとなって現れたのでした。

 こうして迎えた、宗忠の34回目の誕生日であるこの年11月11日の冬至の日は、格別の思いで日の出に向かいました。宗忠の眼前に昇り来た日の出の太陽はぐんぐん迫り来て、その光の中で思わず日輪を呑(の)み込んだのです。言いようのない感激と喜びの中に、燃える日の玉そのままに、宗忠は深くも尊いところを自覚したのでした。

 それは、日の出に表れる大自然の生命の源、いのちの親神としての天照大御神を確かにしたときであり、そのわけみたま、分心(ぶんしん)、分ける心と書きますが、天照大御神の分心がわが心の奥深くに鎮まっていることを大感激の内に確信したのでした。天照大御神を本家とする分家の主が、人間であるとの確信でした。

 この、太陽を呑んで神と一体となった感覚はまことに強く大きく、それに伴って人々が慕い集うところとなりました。もともとが今村宮の神職という宗教者の身に加えて、この一連の宗教体験は、多くの悩み苦しむ人にとっては救いの神となって、自然発生的に宗教教団の誕生となっていきました。

 今日(こんにち)の私どもも、この教祖宗忠の日の出を拝む日拝を、一日の祈りの始まりとして日を重ねていますが、とりわけ日の光を呑み込んだ体験、その教えの言葉で申し上げるならば「御陽気をいただきて下腹に納め、天地と共に気を養う」と教える御陽気修行というつとめは、実に爽快(そうかい)、痛快なことで、毎朝清々(すがすが)しい清冽(せいれつ)な思いにひたる心身の健康の元ともなっています。

 これは単なる深呼吸でもありませんし、物理的には空気を呑み込むのですが、空気はついでに入ってくるくらいの思いで、大切なことは、朝の御(み)光、ご神徳という天地生々の気をいただいて下腹に鎮まるわが心の神である分心に届け、お供えするような思いでつとめることです。そこに日に新たな清々しい感動があります。生かされて生きている自分の発見です。

 今朝のいわゆる初日の出ももうすぐのことですが、黒住教本部である神道山にお参りの皆様と共に、今年初めての、私どもにとりましては立教二百年の初日の出を、教祖宗忠立教の日拝に思いをはせながらつとめるのを、胸躍る思いで楽しみにしていることです。

 皆様のこのひととせのご多祥をあらためてお祈り申し上げます。有り難うございました。