奉祈 人皆の心の神の御開運
天照らす神の御徳を取り次ごう

平成29年6月号掲載

 本稿2月号で述べましたように、日拝奉讃歌(ほうさんか)と食前の祈りとして、私たち黒住教信仰者(お道づれ)が日に何度も唱える御神詠「天照らす神の御徳は天つちにみちてかけなき恵みなるかな」(御文八五号)は、本教の神観・宇宙観・世界観の全てです。そして、この天地に満ち渡る「天照らす神の御徳(天照大御神のご神徳)」を、いかに「知る」かそして「知らせる」かが、「黒住教三世紀のメイン・テーマ(主題)」です。

 同号では「知る・知らせる」の真意は「体取・体得」であることにも触れましたが、私は、いわゆる「お知らせ」程度の一般的発信レベルから、「繋(つな)ぐ・結ぶ」といった組織的継承レベル、そして「体取・体得」という信仰的体験レベルまでを包括できる表現が「取り次ぐ」だと思い至りました。「お取り次ぎ」といえば直禁厭(じきまじない、直接の祈り込み)を意味する非常に重要な本教独自の専門用語ですが、一般的な用法としての「取り次ぐ」は、「繋ぐ」や「結ぶ」よりも一層受け手の判断に結果が委ねられる緩やかな伝達手段です。もちろん、「しっかり取り次ぐ」といった送り手の気持ちが込められることで、「繋ぐ・結ぶ」と同様の意味合いにもなります。教祖宗忠神がひたすら祈られた「残らず早く知らせたき」の御聖願(ごせいがん)に沿い奉るために、すなわち、先月号で申し上げた「まることの世界建設」に向けて私たちの為(な)すべきことは、お道に関わる全ての人々が、主体的に、できる範囲で精いっぱい「天照らす神の御徳を “取り次ぐ”」ことだと確信します。

 そこで、あらためて「天照らす神の御徳」について申し上げますと、“お日様教”たる本教なればこそ、“御(み)光り(日の御徳)”と “おかげ(日の御蔭(みかげ))”と言い換えることができると思います。天地に満ち渡っている “御光り”をいただいた結果が “おかげ”です。今ここに生かされて生きていること自体が尊い “おかげ”であることは間違いないことですが、人は誰しも更なる願い事の成就を祈ります。まさに “おかげ”をいただいて願い通りの結果を得られることはこの上ない喜びですが、たとえ願いが叶(かな)わなくても、それが現実という結果(一般的には “おかげ”とは言われませんが…)であることは明らかです。

 少々理屈っぽいことを申し上げたのは、「天照らす神の御徳を取り次ごう」と呼び掛けさせていただくに当たって、“御光り”と “おかげ”を区別しておかなければならないと思ったからです。その上で、「皆で取り次ぐべきは “御光り(日の御徳)”」と、明確に打ち出したいのです。

 “おかげ”をいただきたいと手を合わす人々の、ひたむきな願いが成就するようにご祈念をつとめるお道教師(布教師)にとって、願い通りの “おかげ”を取り次ぐべく徹底して祈るのは当然の使命(神務)です。「何とか “おかげ”を受けていただきたい!」と一心に祈る時、“御光り”とか “おかげ”とか言っている場合ではありません。「取り次ぐ」の第一は、何と申しても「祈る」ことです。

 それでも、「取り次ぐべきは “御光り(日の御徳)”」と特筆させていただくのは、“おかげ”に心奪われすぎると(“御光り”と “おかげ”を区別しない限り、“おかげ”に注目してしまうのは当然のことです)、お道教師以外の方々に「天照らす神の御徳を取り次ごう!」と呼び掛けても、「(“おかげ”を取り次ぐなんて)とても、我々一般のお道づれの出る幕ではない…」と最初から弱腰モードになってしまうからです。

 「“御光り(日の御徳)”を取り次ぐ」とは、「願い事が叶うから有り難い」だけではない、天照大御神のご神徳の有り難さ・喜び・感動といった魅力を知らせることです。

 わが家が黒住教の教徒・信徒であることの喜びや誇りを家族に折に触れて話して聞かせること、宗忠神の偉大さを知った驚きや感動を知人・友人に知らせること、祈りの中に迎えるお日の出の素晴らしさを周囲の人に伝えること等々。「“御光り(日の御徳)”を取り次ぐ」方法はいくらでもあります。“「取り次ぐ」の第一”と先述した「祈る」時も、三世紀最初の修行目標である「祈りは日乗り」に明らかなように “御光り”を取り次がずに “おかげ”が取り次げるものではありません。 “御光り(日の御徳)”を強く意識することで、次世代に信仰を伝える(繋ぐ・結ぶ)ことも、知人・友人に本教の魅力を知らせる(見せる・魅せる)ことも、そして、病み悩み苦しむ人のために祈ることも、全て「取り次ぐ」というキーワードに集約され「知る・知らせる」という三世紀のメイン・テーマ(主題)の実践に向けた真の柱になると考えます。

 そこで私は、先月号で申し上げた「全ての人のご分心の御開運を祈り奉(たてまつ)る」との思いを「奉祈(いのりたてまつる) 人皆の心の神の御開運」と表して “三世紀”の本教の基本理念とさせていただき、そのための実践大目標として「天照らす神の御徳を取り次ごう」を、教主就任に際しての「告諭」の中心にしたいと考えました。

 全てのお道づれ一人ひとりが、一人でも多くの人々に “御光り(日の御徳)”を取り次ごうと日々心掛けて下さることが、世の中の全ての人に鎮まる天照大御神のご分心、すなわち人皆の心の神の御開運という、「御聖願達成」・「まることの世界建設」を目指す黒住教の不変・不動の存在意義・目的(アイデンティティー)だと確信します。教祖宗忠神の御心に沿い奉るべくしっかり道の誠を尽くして、尊い結果の “おかげ(日の御蔭)”を共にいただいてまいりましょう。