一切神徳(いっさいしんとく)神徳昭々(しんとくしょうしょう)

平成29年2月号掲載

天照らす神の御徳は天つちに
  みちてかけなき恵みなるかな (御文八五号)
天照らす神の御徳は限りなし
  受くる心に限りなければ(伝御神詠)
天照らす神の御徳を知るときは
  ねてもさめてもありがたきかな(御歌八号)
天照らす神の御徳を知る人は
  月日とともに生き通しなり (御文一三九号)
天照らす神の御徳を世の人に
  残らず早く知らせたきもの(御歌九号)

 御真筆の遺っていない伝御歌二首を含めて「天照らす神の御徳」で始まる教祖宗忠神の御神詠が九首ありますが、その内の五首を “黒住教三世紀の基”として学ばせていただきたいと思います。

 まず、日拝奉讃歌と食前の祈りとして、私たちが日に何度も唱える第一首は、本教の神観・宇宙観・世界観の全てです。天照大御神のご神徳は「天地に満ちて欠けなき恵み」であることを明確に示して下さっていることが、本教の一切の教えの拠です。

 その上で、「天地に満ちて欠けなき恵み」すなわち「限りなき」ご神徳(日の御徳)は、私たちの「受ける心」次第という現実を示されたのが第二首です。「心なおしの道」である本教の教えを学びつとめ修めて、ご神徳(日の御蔭)の受け皿としての心を祓い清めて養うことが何よりも大切なのです。

 「寝ても覚めてもありがたき」の心境に誰もがなれるものではありませんが、それほどまでの至福の境地に到達できることを明らかにして下さっているのが第三首です。本教の最大の特性である“徹底感謝”の「ありがとうなる」修行を、日々の心掛けとして共につとめてまいりましょう。

 そこで、今の第三首と次の第四首で示された「天照らす神の御徳を知る」、そして第五首の「知らせたき」が、とても重要な言葉として浮かび上がってきます。天照大御神のご神徳をどうやって「知るか」、そして「知らせるか」を、心新たに黒住教三世紀のメイン・テーマ(主題)として位置付けなければならないと思います。

 実は、第四首で示された「生き通し」こそ、黒住教信仰の最終ゴールです。「月日とともに生き通し」とは容易に実感できるものではありませんが、「生き通しこそ道の元なれ」(御歌二一一号の下の句)、「生き通しは現在只今なり」(御教語)との御教えを体取・体得(それが「知る」の真意)できるように、「心の神」である天照大御神の分心(わけみたま)を中心とする「誠之道」(誠の道・誠が道)を、真摯に生きてまいりたいものです。

 そして最後の第五首、すなわち「御聖願」と称えられ重んじられてきた教祖宗忠神畢生(生涯かけて)の祈りを、黒住教の存在意義・存在目的として全てのお道づれが自覚して、共に「道の誠」を尽くして下さることを心から願っています。

 「世の人に残らず早く」の気宇壮大さには圧倒されるばかりですが、第一首に示されているように、天照大御神のご神徳はすでに天地に満ち満ちているのです。本稿先月号にて申し上げた「天照大御神のご神徳の有り難さを信じ切ってひたすら祈り、報恩の心で人に社会に、とりわけ病み悩み苦しむ人々に奉仕の誠を尽くす」ことがすなわち、「御聖願」達成への「道の誠」なのです。

 冒頭の「一切神徳神徳昭々」は、今まで学んできた、天地に満ち渡る天照大御神のご神徳が、益々発揚・顕現されることを願った祈りの詞です。「全ておかげ、益々あきらかに…」の思いを込めて、日々の祈りに加えていただきたく存じます。

 「人生あざなえる縄のごとし」と教祖神も御教えのように、艱難辛苦は誰もが直面する人生の “修行”ですが、それでも、現在只今が「道の都」であるという感動と感謝の心(活物)を中心に、お道づれ一人ひとりが「道ごころ」を養って開運の人生を送られることを日々お祈りするものです。

天照らす神の御徳を今ここに
  現わし給う宗忠の神(赤木忠春高弟詠)