夢の世をゆめとしれども覚めやらず
さめたる人のこいしかるらん(御歌一九三号)
(虫喰い)だに寄りて思えば
昨日の花きょうの夢とはききつれど
今の嵐はうらめしきかな(御歌一九四号)
また思い直して一首
世の花は散らばや散れよ天つちに
つきせぬ道の花を咲かせん(御歌一九五号)
今月の御教えは、扇面の表と裏に認められている一連の御歌で、そのことが教書にも記されています。この三首の御神詠は、嘉永元年(一八四八)十月八日(旧暦)に教祖神御令室のいく様がご昇天になった際に詠まれたものです。
いく様が病のために重篤となられ、教祖神は御神前で一心に祈り続けていましたが、門弟の一人が「只今、奥様が息を引き取られました」とお伝えしたその瞬間、教祖神はその場に座ったままで気を失われたと伝えられています。しばらくして、意識を取り戻し「ただ今はゲビた(『しくじった』という意味の岡山の方言)のう」と仰ったとのことです。
御歌一九三号は、「この世は夢の世である。万事夢のごとしと知りながらも、なかなかその夢が覚めないので、夢に苦しみ、夢に悩んでいる。この世を去り神上った人が恋しい」と、素直にいく様を恋しいと詠まれています。
御歌一九四号のはしがきは虫喰いのために判然としませんが、「うつつだに寄りて思えば」と推察すれば、「今、現在の心境は」という意味となり、御歌の意に通じます。第一句の「昨日」の読み方は、「きぞ」と「きのう」の二説があります。「昨日まで美しく咲き誇っていた花も、きょうは夢のように散ってしまって、跡をとどめていない。それが花の本性である。また、花に限らず万物もその通りであると知りつつも、最愛の妻を連れ去った無情の嵐は恨めしい」と歌われています。教祖神は、ありのままにいく様の死を恨めしいとお嘆きになっています。
しかし、御歌一九五号では「また思い直して一首」とはしがきして、「散るならば散るがよい。自分はそのことをいつまでも嘆いていてはならぬ。さあ、浮き世の花の開落、人の身の生死、その世事を超えて、楽しく勇ましく、天地に尽きせぬ生き通しの花、道の花を咲かせてくれよう」と詠じられています。
人は、天照大御神様のご分心(わけみたま)をいただく神の子で、〝生き通し〟の存在で、そのご分心を傷めてはならないと分かっていても、最愛の奥様を亡くされた悲しみ、いわゆる人の情愛を何よりも大切にされています。しかし、その悲哀の中にも、かくあるべしと思い直された、教祖神の御心の尊さに感服いたします。