みな人のあしきはおのが姿なり
よくかえりみよ清き心を
はすなわち日月なり
(御歌一五二号)
今月の御教えの御歌は、御七カ条のとめの歌(先月号参照)と大変よく似通った御神詠です。人はともすると相手(他人)が悪く自分が正しいと思いがちですが、相手が悪く見えるのは実は自分の悪心の投影ですので、まずもって自分の心を見つめ反省することが大切です。
「人は、天照大御神のご分心(わけみたま)をいただく神の子」ですので、自分の心が本来の清い心(ご分心)の姿であるかどうか、大御神様の御心(誠)にかなっているかどうか、相手を責めるのではなく自分自身を省みる大事をご教示下さっています。そして、その〝反省の誠〟の拠り所こそが清き心であり、ご分心なのです。
この御歌にはわざわざ、「清き心─はすなわち日月なり」との説明書きがなされています。「日月」とは 「天照大御神」のことで、〝心の本体〟が大御神様なのです。教祖神は「日月」と書いて、「ひと」とも「かみ」とも読まれています。
畏くも日月の生みたる人なれば
日月の恵みのあるぞ尊き (御歌九五号)
上の句にも下の句にも「日月」がありますが、原点には振りがなは書かれていませんので、どう読むかは諸説あります。そして、どう読んでもそれぞれに含蓄に富んだ御歌となります。とにもかくにも「かみひと一体」、「神人不二」をお示し下さっているのです。
「お家へ火をつけた者のためにお祈り」という御逸話があります。修験者・祈禱師の類の者が、教祖神の霊験あらたかな評判を妬み逆恨みして、教祖神のお宅の屋根に松明で火を点けようとしたのですが、不思議と火が点かず松明を投げ捨てて逃げて行きました。教祖神はその火を点けようとした者を責めるのではなく、そうした重罪を犯させてしまったことに自らを反省して、燃えさしの松明を御神前に供え、犯人がご分心をいただく神の子としてふさわしい真人間に立ち返るように三週間の願を立てて祈られました。すると、その満願の日に犯人は意を決して教祖神のお宅へ謝罪に訪れたのでした。
教祖神は、根も葉もない誹謗中傷を「わが不徳のいたすところ」と〝反省の誠〟をつとめられたのです。