遠き理屈を穿鑿するよりは、
目の前の有り難き事を
見落とすな
教祖神ご在世当時、今日の岡山県津山市の安黒という大庄屋の家で、教祖神をお迎えしての御講席が開かれた時のことです。岡山から二十里余(約九十キロ)もある山間の地へ大先生に足をお運びいただいたのですから、かなり遠方からも数多くの人が参集しました。
さて、その折の教祖神の御講釈は、
「皆様、有り難いことでございます。まことにお道は有り難いものでございます。天照大御神のご神徳は、実になんとも申しようもなく有り難いことでございます。思えば思うほど、有り難いことであります。本当に有り難いことでございます」
と、「有り難い」を五回繰り返しただけで退座されました。その間、わずか二、三分のことでした。しかし、ただそれだけでその場には「有り難さ」が満ち満ちて、参拝者一同、感涙にむせんだということです。(「教祖様の御逸話」(日新社刊)所収の「『有りがたい』を五ヘンくりかえしてご退座」より)
簡にして要を得るといいますか、ありがとうなり切っておられた教祖神ですので、その有り難さに皆が感激・感動を覚えたのです。今年の信心心得の通り、まさに「〝ありがとうなる〟有り難さ」を実感した参拝者は、心からありがとうなったのです。
このお道の御教えを手を尽くしたずねていると、得てして筋道が立った論理的なものを求めがちです。しかし、教祖神は「理屈をほじくり返すよりは、目の前の有り難いことを見落とすことのないように」とご忠言下さっています。
教祖神は労咳(肺結核)のために、命旦夕に迫られた際、体は苦しくとも大御神様に生かされて生きている有り難さを見落とすことなく、いつ途絶えるかもしれない呼吸の一息一息に「ありがとうございます。ありがとうございます」と感謝の祈りを捧げて、起死回生のおかげを受けられたのです。
身の回りの「有り難い」を捜し見付けて、その一つひとつに「ありがとうございます」とお礼を申し上げる信心生活を積み重ねていくことがお道修行であり、形の上でもおかげをいただく道筋となるのです。