天照らす神の御心わが心
へだてなきこそありがたきかな

 「今月の御教え」の御神詠の前文には、
「一、まことに道は、はなはだ安きものなり。そのわけは何事も天照大御神より命を受けつかまつり候えば、日の神の世界を照らし給うごとくなり。すみずみまでも行き届かぬところなし。ここがすなわちまことの道なり。直ちに無念にして有り難き一筋に相成り候えば、自然とよきように相成るものなり。少しにても例の陰気いで候えば、くらく相成り明かりを失うなり。まことにまことに、少しの間も油断相成り申さず候。ただ何事も我を離れ、今日より心はすなわち天照大御神なりと、ただ有り難し有り難しと、余念を離れなさるべく候」と記されています。

 「このお道はつとめやすいもので、天照大御神のご命(ご神慮)のままに素直に従っていけば、ちょうど、日の神(大御神様)が世界の隅々までお照らし下さるように、行き届かぬ所がありません。それこそが誠の道で、余計なことは思わず、ただ有り難いばかりになれば、自ずとよきようになります。ですから、大御神様の大御心に反する陰気な心になると明かりを失います。何事も我を離れ、今日からはわが心は、大御神様のわけみたま(ご分心)で有り難い有り難いとの一心になりなさい」とご教示下さっています。

 有り難きまた面白き嬉しきの三喜(陽気)の心が〝開運の基〟であり、感謝また感激感動の心を培うことがお道信仰といえます。余念(雑念)を離れ三喜の心になれば、そこに起死回生のご神徳がいただけるのです。例えば、病に苦しむ人が有り難い心を失うと一層に病が重くなりがちです。しかし、病気で苦しんでいるときでも、身の回りの「ありがとう」を捜して感謝すれば、病気も治り開運の道を歩むことができるようになります。

 そこで、「教祖宗忠の神様! ありがとうございます!」「宗忠様! ありがとうございます!」と御神名と御礼を申し上げていると、心が平静に戻り〝ありがとう〟なります。教祖神は「この黒住宗忠を師と慕う者は決して見殺しにはせぬ」と仰っています。「教祖様の御逸話」(日新社刊)にも、「見るもの聞くもの何につけても『有り難い、有り難い』とお礼を言いなさい」とお諭しになった御逸事(「有りがたいという修行」)が収められています。まさに「感謝の誠」こそ、真の祈りとなるのです。