有り難き中に住みける神々を
なお有り難く思う人々(御文二〇五号)

 「何事も何事も少しもご分別なく、天命にお任せ遊ばされ候ところ、この上もなく有り難き御事と存じ奉り候。時に一首只今侍る。

 有り難き中に住みける神々をなお有り難く思う人々 と仕り候。この人々こそお守り遊ばされ候やと存じ奉り候。天下に一番と申すくらいの人たりとも、このところ忘れ給う人は、末はつまらぬものと存じ奉り候」(御文二〇五号)

 現代語訳しますと、
「何事も何事も少しも分別なく天命にお任せなさっているところ、この上もなく有り難い御事と存じます。時に一首只今詠みました。

 有り難い中に住んでいる神々をなお有り難く思う人々 といたしました。この人々をこそお守りなさるかと存じます。天下で最も身分の高い優れていると言われるほどの人でも、ここをお忘れになる人は、行く末はつまらないものと存じます」
となります。

 この御文中の「分別」は「知恵や計らい」といった意味で、物事が自分に好都合に運ばれるようにとの計らい心を仰っています。一般的に「分別がある」と言えば、よい意味で用いられていますが、お道の上では、〝利害損得〟を基準にした計らい心として強く戒められています。天照大御神のご神徳の、まさに有り難い中に住んでいる神々を、なおも有り難く感謝し計らい心を捨てて天命にお任せする大事を、御歌をもってご教示下さっているのです。

 ところで、「有り難い」という感謝の言葉は、黒住教の代名詞といえます。私たち人間は、大御神様のご分心(わけみたま)をいただく〝神の子〟であり、この世の中の全てが大御神様のお計らいです。いわば、目の前の全てのものが大御神様からの〝おあてがい〟ですので、私たちは何事にも「有り難い」といただく姿勢が大事です。私たちがこの世に生きているということは、それ自体が奇跡であり、大御神様から〝命のおあてがい〟をいただいているのです。

 多くの人が難の無い「無難」な人生を望みますが、生きていく中に、その証しのように難に出合います。しかし、その難が有るからこそ、「有り難い」人生となるのです。