世の中に楽しみ多き身なれども
生くるにまさる楽しみはなし(伝御神詠)
文化九年(一八一二)の秋、はやり病のためにわずか一週間のうちにご両親を相次いで亡くし、その悲しみのあまり、教祖神は労咳(肺結核)を患い生死の関頭に立たれました。文化十一年を迎えると病状はいよいよ悪化して、一月半ばにはもはやこれまでといった状態に陥られました。
そして同年一月十九日の夜明け、教祖神は血を吐き一呼吸するのも胸かきむしる苦しみの中、せめてお日様に最期のお別れを申し上げるべく、家人に縁側まで運び出してもらい、旭日を拝されました。今日、「第一次の御日拝」と申し上げていますが、教祖神は心が陰から陽へと大転換するおかげをいただかれたのです。
ご両親の突然の昇天を悲しむあまり心が陰気になり、知らず知らずのうちに一番の親不孝をしていることに気付かれました。そして、有り難いことを探されると、次々と数え上げることができて〝喜び感謝すべきこと〟に包まれたのでした。
「長らく病の床にある自分を、何一つ愚痴をこぼすことなく看病し、家を支えてくれている妻。また、すくすくと育っている子。しかも、まだこうして生きている自分自身。この苦しみも生きていればこそ。鼻と口から息が通い、わが心臓は動き、今なお生かされて生きている。こうした有り難さを見失っていた自分は道を取り外していた…」と。
教祖神の御教語を星島良平高弟がまとめられた「三十カ条」の二十九番目には、
「生ものは息するものという事で、人間は勿論、鳥畜類に至る迄 天照神の御神徳が、二六時中に鼻と口より通い玉う故、生きて居らるる。なんと有難く尊い事では御座らぬか」
とあります。まさに、天照大御神のご神徳によって息(呼吸)ができ、生かされて生きていることを忘れてはならないのです。