天照らす神のみはらに住む人は
ねてもさめてもおもしろきかな(御歌一〇号)

 この御歌は、「天照らす神の御徳を知るときはねてもさめてもありがたきかな」(御歌八号―本誌二月号「御教え」参照)と対をなすものです。この世の全てが、天照大御神がお生み出し下さったもので、そのご神徳の中に私たちは、大御神様のおはたらきによって面白く嬉しく「生かされて生きている」のです。

 赤木忠春高弟は「夢さめて己が住家をよく見れば天照る神の懐の中」と詠まれていますが、その思いを私たちも忘れることなく、「大御神様のなさることに悪いことはない」との確信を持って〝感謝〟の心で生きていけば、「ねてもさめてもおもしろきかな」となるのです。一般的に「面白い」とは「笑い」を表現する際に用いられますが、感謝の念があってこそ本当の「面白い」、すなわち興味関心を伴う感動なのです。

 しかし、多くの人たちは「神のみはらに住む」という、赤ちゃんが母親に抱かれて安らぐような〝大安心〟を持てないところから不安が増し煩悶することになります。

 大御神様のおはたらきがあそこにも、ここにもと、日常生活において気付くようになれば、生かされて生きる有り難さ・面白さ・嬉しさが実感できるようになるのです。仕事が面白いと言う大方の人は、仕事に集中して仕事と一体になり、時間を忘れるくらいの喜びと感謝を感じていらっしゃいます。そしてお道信仰をつとめている方の心底には、大御神様、ご一体の教祖宗忠の神様が昼夜を分かたず、私たちをお守りお導き下さっているとの〝絶対の信〟があります。「教祖様の御逸話」(日新社刊)所収の「古松老婆へのお諭し」を併読いただきたいと思います。

 なお、この御歌一〇号は、一一号の「鳥がなく東のはても今ここも同じまことのうちとおもえば」と、同じ紙に書かれていました。参勤交代で江戸詰になる門人に、御餞別として贈られたものと伺います。教祖神は、遠く離れている江戸に向かう門人に、修行の心得として「何事も面白く、心を明るく持っておつとめなさい。私が見守っていますよ」と、深い愛情を込めて詠まれた御歌であることが伝わってきます。