天照らす神の御徳を知るときは
ねてもさめてもありがたきかな(御歌八号)

 天地自然に遍く満ちわたる万物を生かし育む
天照大御神のご神徳の中で、人間はもとより全ての生命は生かされて生きています。教祖神は、殊に「人間は、天照大御神のご分心(わけみたま)をいただく神の子」であることを御教え下さっていますが、そこに感激と感動そして感謝の心を持ってご分心を養うことが、お道修行といえます。

 日本最高峰で、その優美な山容が日本の象徴とされる「富士山」は、日本人皆が知っています。しかし、その知りようは人それぞれで、本で読んだ、写真を見た、テレビで見た、新幹線の車窓から仰いだ、静岡県や山梨県から望んだ、登山したというように様々です。大御神様のご神徳も同じように、信仰の深浅はもとより実体験の多い少ない、誠心(真心)の強い弱いといった要因で、感激・感動また感謝の心の大きさが違ってきます。まさに、「天照らす神の御徳」の知りようによって違ってくるのです。

 教祖神が道端に咲く野花をご覧になって感泣されたこと、道中で使い古した草鞋を拝んで履き替えられたこと、一杯のお茶を差し出された奥様に拍手をして感謝されたといった御逸話に伺えるように、教祖神は日常の些細なところにまで、大御神様のご神徳を見出だして〝感謝の誠〟を捧げられていました。そして「ねてもさめてもありがたきかな」であられたのです。

 「ねてもさめても」とは、常住坐臥(日常、常々)といえます。目が覚めて意識のある間は感謝の念を持つことができるけれども、寝ている時は感謝などできないと思う人もいらっしゃるかも知れませんが、決してそうではありません。寝ることができるのもおかげであり、大御神様のご神徳があればこそです。寝ている間も、新陳代謝が行われていますし、もちろん息もしているのです。

 「生ものは息するものという事で、人間は勿論、鳥畜類に至る迄天照神の御神徳が、二六時中に鼻と口より通い玉う故、生きて居らるる。なんと有り難く尊い事では御座らぬか」(三十カ条)

 寝ても覚めても感謝を忘れぬよう、常日頃から〝有り難い感謝の心〟を持つように努めてまいりましょう。