人々の誠のところより、
天地の誠のいきものを、
よびいだすと存じ奉り候。(御文一二号)

 教祖神の御教えの中心をなしているのは「人は、天照大御神のご分心(わけみたま)をいただく神の子」です。そのご分心は、私たちの心(下腹)にお鎮まりになっていますので、自分の心を祓い清めていくことが大切な修行となります。

 教祖神は、いわば生きながらの神となった〝天命直授〟以降も、病み悩み苦しむ人々を救い導くとともに、大御神様の大御心にかなうべく〝祈りと奉仕の誠〟を尽くされました。私たちにおいて、心を祓い清めていく修行は、大御神様のご神徳の中に生かされて生きていることを信じて、教祖様の御瀬踏に従っていくことです。ですから、誠を尽くす生き方こそ、ご分心本来のおはたらき(おかげ)をいただく道となります。

 今月の御教えは、御文一二号の要点で実に尊く有り難い一節です。前述の通り、人はご分心をいただく神の子で、教祖神はその「ご分心」を「誠」だと仰っていま す。その誠の本体が、大御神様の大御心だとご教示下さっていますので、本心の誠(活物)をもって天地の誠の活物を呼び出だし、それによって奇跡的なご神徳(おかげ)が現れるのです。この一節は、賞書衆(道念堅く、通信講座普通課程や黒住教学院の所定の講習会等を修了した人が列せられる)が受ける「禁厭伝授」に引用されていて、本教の「お取り次ぎ」の原理といえます。何度も唱えておかげをいただいて下さい。

 教祖神は「何事も心のままに叶う御道なり。おんかげは自由自在なり」(御教語)、また「小子(私)の手がらにはござなく、みな天照大御神様の御影と存じ奉り候」(御文二四二号)と仰せです。

 「おかげ」をいただきたい一心で、御影(おかげ)ばかりを追いかけていても、その影は逃げて行くばかりです。逆に大御神様に向かって誠を尽くしていると、誠という実体の後に影(結果)は自ずと付いてきます。まさに、おかげは「日の御蔭」です。御陽光がわが心に射し込んで、陰から陽へと〝心なおし〟することによって、おかげは自由自在となるのです。