よきことはつとめてもみな取り給え
あしきことをばはらい給えよ
これみな心の祓いなり(御文一五〇号)

 「人は、天照大御神のご分心(わけみたま)をいただく神の子」との御教えが、黒住教の信仰の中核を成すものですが、「誠」を尽くすということは、〝まることの循環〟に沿って生きることになります。

 生命のはたらきとしての「まること」は、大自然の循環活動であり、大御神様の御心にのっとってはたらいています。その循環作用を断ち切ることのないように、丸く明るく生き生きとした流れに沿った〝人の行い〟は、天地宇宙全ての物と調和し、良い方へ良い方へと進んでいきます。ですから、「誠」=「まること」を尽くす生き方が、ご分心を養い育てる道となり、そのご分心のおはたらき(大御神様のご神徳)を存分に得て、〝開運の道〟を歩むことができるのです。

 教祖神の御教語に「神道は祓いの一言に在り。祓いは神道の首教なり」とありますように、わが国では古来、〝祓いの神事〟が盛んに行われてきていて、「六月祓(水無月祓)」などもその最たる儀式です。形をきれいに祓い清めることを通じて、その内面(心)をもきれいにしようというのが本来ですが、ややもすると形ばかりにとらわれて〝心の祓い〟を忘れてしまいがちです。そこを、教祖神は「心の祓いが肝要」(御教語)とご教示下さっています。

 そこで、つとめていかなければならないのが、今月の御教えです。「善いことは努力しても皆とり行いなさい。悪いことは祓いなさい。これは皆心の祓いです」と仰せですが、得てして、心にかなわない面白くないことを取り上げて、心を塞ぎ陰気になり、自分で自分のご分心を痛めている場合が多いものです。いわゆる「心配り」は大切ですが、心配が「心痛」になってはいけません。「心配はせよ、されど心痛はすな」です。

 罪けがれを切って捨てるのも祓いですが、身の回りの心にかなう「有り難き・面白き・嬉しき」よきことを見つけて感謝し、ご分心を養っていくことが大事で、それは真の祓いとなるのです。