天地の御物をもって、
天地の人に施せ(御教語)

 かねて本欄でも申し上げている通り、教祖神御教えの中核をなすのは「人は、天照大御神のご分心(みわけみたま)をいただく神の子」です。ですから、人の本来の心は大御神様の御心と同じでなければなりませんが、我や欲また臆病や疑いの心が生じてしまい、神の子には程遠い行いをしてしまいがちです。

 人が信仰を始める動機(きっかけ)は、「自分が助かりたい、救われたい」という願いからくることがほとんどです。これは、極めて自然な姿ですが、真に助かるための極意が今月の御教えといえます。

 今年と来年の二年間の修行目標の「活かし合って取り次ごう! 〝まること〟の丸い心 丸いはたらき」は、よりよく生きるための〝五つの誠〟の第三項の〝奉仕の誠〟が基となっていますが、〝奉仕の誠〟は決して一方通行の行いではなく、誠を受ける側が助かるとともに、つとめた側が真に救われるのです。

 人に社会に誠を尽くすことにより、ご分心が養われ、大御神様のご分心のおはたらきを存分にいただけるのです。まさに〝まること〟の丸い心(調和)で、丸いはたらき(循環)により、生々発展の広がりを得ることになります。「情けは人のためならず」(人に情けをかけるのはその人のためばかりではなく、やがて自分によい報いがある)との格言の通りです。

 だからといって短絡的に自分本位の見返りのみを求める行為は、本来の「まること=まこと」ではないことは言うまでもありません。そして、こうした理屈を言う前に、とにかく、目の前の病み悩み苦しむ人を助け導かれたのが教祖神でした。本欄の二月号で紹介した「教祖様の御逸話」(日新社刊)に所収の「豊楽寺村の周蔵さんのこと」や「ご紋服のまま橋の穴をお埋めになる」等が、その代表的な御逸事です。

 たまたま馬方の話を聞いて、病気と貧乏に苦しむ周蔵さんをすぐに助けられたり、たまたま土橋の穴を見つけ、もし人様が誤って足を挟んでケガをしてはいけないと、お殿様から拝領したご紋服が泥だらけになるのも構わず穴を埋められたりする等、気が付くとすぐさま、〝奉仕の誠〟を実践される教祖神でした。ともどもに見習ってまいりましょう。