親心を忘れるな(御教語)
教祖宗忠神は幼い頃より岡山藩内において〝中野の孝子〟と称(たた)えられるほどの親孝行で、ご両親の宗繁様、つた様に倣(なら)って「敬神崇祖」の心がとても厚いお方でした。教祖神ご直門の星島良平高弟がまとめられた「教祖宗忠神御小伝(ごしょうでん)」の一節にも、教祖神の御事を「天性正直にましまして、深く日神(ひのかみ)を信じ、父母に仕へて孝心厚く」と記されています。
宗忠様は青年期を迎えると、そのご孝心はますます熱くなっていかれました。そして、世の病み悩み苦しむ人々を目(ま)の当たりにした宗忠様は、そうした人々をお助け申し上げることが何よりの親孝行になると思うようになり、「生きながらの神になろう」という大志を抱かれました。やがて宗忠様は20歳ばかりの頃、「心に悪いことと知りながら、身に行う悪いこと」を具体的に5つ箇条書き(「五カ条」と称されている)して、ご自身の日々の戒めとして、爾来(じらい)10数年間、ひたすら〝神となる〟道を歩み続けられました。
ところが文化9年(1812)秋、わずか一週間のうちにご両親が相次いで流行病(はやりやまい)のためにご昇天。宗忠様は生きる望みを失い、翌10年秋には労咳(ろうがい、肺結核)を患い、翌11年1月には死を待つばかりとなられました。そして、生きる希望も気力も失った宗忠様が最後にお別れを告げるべく御日拝をつとめる中に、「ご両親の死を悲しみ心を痛め陰気になり、取り返しのつかない病になってしまった。知らず知らずのうちに一番の親不孝をしていた」との深い悔悟と、「一息一息を有り難くいただいて、生かされて生きていることに感謝し、心が陽気になるようにつとめることが〝真の親孝行〟である」ことを悟られたのです。この時の御日拝を「第一次の御日拝」とお称えしています。
親子の絆は薄れて個化(細分化・個別化)の進む現代社会ですが、すべての生命を生かそう・育てようとおはたらき下さる天照大御神、そしてご一体の教祖神の〝親心〟は、今も昔も変わることはありません。「生かされて生きている」ことへの報恩感謝を忘れることなく、心豊かな人生を歩むことが〝真の幸せ〟となるのです。