一から萬まで、何事も何事も天命と心得て、有り難くこれに従いまつるのが、天地の大親様への孝行というものなり(御教語)

 「何事も天のなすのと思いなば
     苦にもせわにもならぬものなり
善悪共に、天命と思い候(そうら)えば、少しも苦になることござなく候(そうろう)。我ともとめさえつかまつらず候えば、あしきと思うことも、みなよきことと相成り候。小子(しょうし)も、三十年以前の大難が、今この幸いと相成り候あいだ、難さえ有り難きに相成り候あいだ、まして何事も、おぼしめし通りに相成り候ゆえ、いよいよもって御生き通しとおぼしめし、お勤め遊ばさるべく候」(御文一六八号)

 何事も全てが、天照大御神のお計らいであると思えば、苦にもならず、煩わしくもないとの御(み)歌です。そして、自分にとって都合の良いこと、また逆に都合の悪いこと全てを天命と思えば、少しも苦になることはないと仰せになっています。自分から求めて我を出し、大御神様からお与えいただいたものを、自分に都合が悪いからといって尻込みをしたり、逃げ出すようなことをしなければ、自分にとって好ましくないことも、全てが好ましいことに転じるとご教示下さっています。この世の全てが、私たちをお生み出しになり、お育て下さっている大御神様(大親神様)のお計らいですので、決して悪いようになされるはずがないからです。

 御文一六八号は、天保14年(1843)の一森彦六郎氏宛ての御手紙ですが、それから30年前といえば、教祖神のご両親が、流行病(はやりやまい、今の赤痢・チフスの類い)でわずか一週間のうちに相次いで亡くなられるという大難が起こりました。さらに、大変親孝行な教祖神は、その悲しみのあまり肺結核を患い、生死の関頭に立たれるという大難に見舞われたのでした。

 「その折、今日只今(こんにちただいま)の幸せを誰が予見できたでしょうか。そうした大難ですら、やはり大御神様のお計らいです。難さえ有り難いになりますし、まして何事も思い通りになっていくのですから、いよいよもって〝生き通し〟と思っておつとめ下さい」と、御自らのご体験を引き合いに出して懇切丁寧に「天命」の有り難きことと、「お任せ」の大切をお説き示して下さっています。

 「一(いち)から萬(まん)まで」全てご神徳(一切神徳)」と信じ切り、何もかも天命と心得て有り難くいただくことが、大御神様への最大の「孝行」になるのです。