心配は大元の父母への不孝の随一(御教語)

 陰気にせめられてご分心を穢(けが)し奉(まつ)り、心気を枯(から)す事、天地の親神様に対し奉りて、此(こ)の上の大きな罪は有るべからず、まことに不孝の第一なり。(御教語)

 人が恐怖心を抱き不安になると、心も体も病になってしまいます。まさに「ストレスは万病の因(もと)」です。そして、人の心が陰気になり天照大御神様のご分心(みわけみたま)を穢すことは、お互いの生命を縮めるだけのことにとどまらず、万物の親神たる大御神様に対する大変な不孝となり、〝開運のおかげ〟も受けられなくなってしまいます。将来、何が起こるか分からないと思いながらも、明るい未来を信じてつとめる中に〝開運のおかげ〟がいただけるのです。

 海あれば山もありつる世の中にせまき心をもつな人々(御歌八四号)
の御神詠のごとく、「よい時もあれば、悪い時もある」「辛(つら)いことの後には、きっと有り難いことがある」といった具合に、前向きに積極的に生きることが大切です。いわゆる〝プラス思考〟が開運の基となるのです。

 心配をつかまつる気に相成り候(そうら)えば、心づかいやむことござなくと存じ奉(たてまつ)り候えども、よきことは有り難く楽しみ、あしきこと有るときは修行と存じ奉り候えば、何事もいっさい修行をもるることござなく候(そうろう)。(御文二四八号)

 「心配をいたす気になりましたら心遣いはやむことはないと存じますが、よい事は有り難く楽しみ、悪いことがある時は修行と存じますと、何事も一切修行でないことはございません」という意味です。教祖神は善悪ともによき修行であり、「道の開(ひらけ、お道の開運)」であるとお諭し下さっています。

 また、教祖神の御言葉に「心配はせよ、されど心痛はすな」(御教語)とあります。「心配(くば)り」という意味での〝心配〟と、心を痛める〝心痛〟を全く別のものとして御(み)教え下さっています。大御神様のご分心をいただく神の子として、〝常の祓い(常祓(じょうばら)い)〟につとめ、ご分心を痛めないように感激・感動そして感謝の心で“元気を喚起”して日々を送りたいものです。