天照らす神の御内に住みながら
          われと魔道へおつるあわれさ(御歌三号)

 宗忠神が御神用にてお出掛けの道中に、岡山の町で大勢の人が集まって井戸の中に落ちた猫を助けている場面に出くわされたことがありました。

 小さな籠を綱の先につるして下げてやると、「溺れる者は藁(わら)をもつかむ」の諺(ことわざ)通り猫がそれに乗ります。いい具合に引き上げて、もう少しというところで、猫は自力で外に飛び出そうとして失敗し、また井戸に落ち込む。何度やっても同じことの繰り返しで、人々も業を煮やして「やっぱり動物だ…。仕方のないやつだ!」となじる。猫はだんだん弱り衰えていく。じっとご覧になっていた宗忠神の目に、いつしか涙の露が宿る。

 「かわいそうですが、猫一匹のことです。先生が涙されるほどのことでは…」と驚くお供に、「猫のことではありません。あれは、お互い人間のことです。皆、同じようなことをしている。大御神様が、生かそう育てよう助けようと常におはたらき下さっているのに、すぐに“我”を出す。小賢(こざか)しい知恵を出して早まる。もう少しじっとして任せておればいいものを…。大御神様が、どんなにもどかしく、憐(あわ)れに思われているか、それを思えば申し訳なくて、涙せずにはおれません」。

 同様に、外出時に目にした風景から、「子供の遊びを見て、天から自然のよい教えをいただきました…」と説き示して下さったのが、「生き枝枯れ枝について」です。

 「先日、子供たちが凧(たこ)をあげているのを見て、尊き天の御(み)教えをいただきました。時折、凧が木の枝に引っ掛かり、子供たちは懸命にそれをはずそうとします。じっと見ていると、生きた枝に掛かったのは、たいてい糸も切れず難なくはずれますが、枯れ枝に引っ掛かった凧は、なかなかはずれません。無理にはずそうとすると、たいてい糸が切れてしまいます。それを見ながら、私はいよいよ悟りました。人の心も同じで、生き生きと活(い)きておりますと、他の人との話し合いでも、どんな問題でも、スラスラたやすくほぐれますが、心が死んで陰気になっていると、一つ問題が起きて引っ掛かると、もつれにもつれてどうしても解決がつかず、切れたり損じたりして大変なことになってしまいます。まことに生きるが大御神の道で、生きた心で人を活かす。そのほかに道はございません。まことに、道は活かすことが第一です!」。