天地の誠の道を知りぬれば
         この身このまま天照らす神(伝御神詠)

 備前岡山藩首席番頭で四千二百石取りの土肥家は、徳川将軍家に大きな功労があり、「土肥の船太鼓」といって日本各地の港で、その太鼓が聞こえると優先される権限を与えられていたほどの名誉の家柄で、藩主池田家からも特別な扱いを受けていました。

 教祖宗忠神ご在世当時の当主であった土肥右近氏は、宗忠神を非常に尊信しており、たびたびお宅に招いて御教えを学んでいましたが、宗忠神がお帰りになる際には必ず玄関先まで出て、自ら宗忠神のお履物を揃えて見送っていました。

 ある日、土肥家に仕える野呂俊介という用人が、主人に意見を申し述べたことがありました。

 「失礼ながら、殿が黒住の先生を尊敬なさり、その教えを聞かれるのは結構ですが、四千石の御大身でありながら、一田舎神官の履物をご自身でお揃えになるのはいかがかと存じます。ご身分柄、おやめ下さい」

 「ああ左様か、承知した」と応じた土肥氏でしたが、次に宗忠神をお招きした際も、お履物を揃える主人に、野呂氏は不満を抱いて再びご忠言申し上げました。

 その次に宗忠神がお出でになったのは、春雨が降った後で、土肥家の庭は玄関から式台(屋敷入口)まできれいにほうきの目が入っていました。いつものように、宗忠神の履物を揃える主人の姿に、野呂氏はついに腹を立てて、以前に増して強い口調でご忠言申し上げたところ、右近氏は「野呂、式台から玄関までよく調べて来なさい。たった今、先生がお帰りになった跡を、とにかく行ってしっかり見て来なさい」と命じました。

 野呂氏が渋々式台から玄関まで行ってみると、帰られたばかりの宗忠神の下駄の跡が全く付いてなく、ほうきの目がきれいに残っているだけでした。

 驚き感激した野呂氏は、「殿が、黒住先生を尊信なさるのは、ごもっともなことです!先生こそ、まさに生き神様でございましょう。意見を申し上げた、私の不明をお許し下さい」と深く詫び、やがて宗忠神の門下に入ってお道づれになりました。野呂氏の神文捧呈(入信の誓い)は、文政5年(1822)のことでした。