「おかげさま」のおかげで
教主 黒住宗道
運動部・文化部を問わず幾つもの部活動が全国優勝も含めて目覚ましい活躍を見せる、岡山を代表する高校の学校法人森教育学園岡山学芸館高等学校で、保護者の皆さんに向けた講演会の講師を依頼され、「『おかげさま』のおかげで」と題して講演することになりました。先々月から講演要旨の紹介が続きますが、「いつも『おかげさま』の心で、謙虚に感謝して生きることの有り難さ」は、私たちが忘れてはならない日本古来の生き方の基本であり、本教の教えそのものです。熟読していただきたく存じます。
毎朝日拝をつとめていると、一日として同じ日の出はないことを実感します。同じような天気の日でも、ほぼ一分単位で日の出の時刻が前の日から変化し、その場所もほんの少し北上または南下します。もちろん雲や風の影響で、前日の日の出とは様変わり…なんてことはしょっちゅうです。定点観察をするように毎朝同じ場所で欠かさずつとめるからこそ気付きやすくなるのでしょうが、頰に当たる朝の冷たい大気の匂いや味、また鳥や虫の鳴き声に「あっ! 昨日と変わった…」と、ちょっとした季節の移ろいに敏感になります。自然科学に詳しい方から教えていただいたのですが、少しずつ明るくなるに従って植物たちの光合成が盛んになり、その活動が安定した活発状態に達するのが「ちょうど日の出の頃」なのだそうです。光合成によって生産されたばかりの新鮮な酸素たっぷりの大気は、水分が気化(蒸発)する時に熱が奪われて冷たいので「朝の冷気」と呼ばれ、比重の関係で低いところに流れ込むことで微かな風が起こり、そんな僅かな空気の変化が野鳥たちの目覚めと行動開始を促すので、日の出とともに山林が一気に賑やかになる…。たとえ昇る旭日が見えなくても、私たちは日の出の瞬間を確かに感じ取ることができるのです。
日の出について、もう少し話を続けます。地球が自転しながら太陽の周りを公転していることを知らない人は、少なくとも此処にはいらっしゃらないと思いますが、日の出の瞬間は誰もが〝天動説〟を信じたくなります。山の端から、または雲を乗り越えて光の一点が現れ、それが見る見るうちにぐんぐん大きくなって強烈な光線が自分に向かって射し込んできて、気が付くと眩い光に包み込まれている…。沈む夕日も実に美しいですが、活力というか生命力を与えてくれる力強さは日の出の太陽すなわち旭日に限ります。それは何故でしょうか…? 実際には静止している太陽に、こちらがどのように動いているかを考えると誰でも納得できます。太陽から遠ざかっていく日の入りに対して、日の出は太陽に向かってまっしぐらに接近しているからです。
私は黒住教教主という宗教家ですから、太陽を「天照大御神」と称えて、その尊いはたらきを信じて毎日祈っていますが、何も神秘的な話をしなくても、この地球上で命を与えられて生きている全ての人々に「太陽の『おかげさま』」をしっかり伝えて、皆さんに有り難い心を養ってもらうことは十分できると確信しています。
ところで、「日本」という国名の漢字の意味を英語で紹介する時、皆さんはどのようにおっしゃいますか? 「The origin of the sun.(日の本)」でしょうか? 私は「それは〝井の中の蛙〟では?」と若い頃から違和感を覚えていたのですが、人から「日の本」の「の」は「主格」と教えられてスッキリしました。「私の名前」のような「所有格」の「の」ではなく、「花の美しい季節」のように「の」を「主格(すなわち『が』と置き換えられる)」と理解すると、「The sun is the origin.(日が本)」となって、地理的・気候風土的に穏やかな四季に恵まれた自然環境から「太陽を総体的な恵みの象徴として称えてきた歴史に基づく国名」であると紹介することができます。(もっとも、近年は気候現象の激甚化が著しく「穏やかな四季」は様変わりしつつありますが…)
国名に限らず、「国旗」は「日の丸」、遥か太古から「お天道様」とか「お日様」と称えて太陽に手を合わせてきた我が国の信仰文化を思うと、「日本人は仏教が伝来する遥か以前から、春分と秋分には真東から昇って真西に沈む太陽(日)を一日中拝んで先祖を祈ってきた。だから『ひ、おがむ』→『ひがん(彼岸)』」という、あまり知られていない学説ではありますが、毎朝〝日を拝んでいる〟者として、どうしても紹介しておきたい専門家の学術的主張があります。(故和歌森太郎元東京教育大学[現筑波大学]名誉教授の説)
ここで私は「彼岸の語源」を主張したいのではありません。注目したいのは「仏教が伝来する遥か以前から、太陽を拝んで先祖を祈ってきた」という指摘です。「先祖を祈る」というと、仏事とか法事・法要といわれるように仏教行事だと思っている方が多いと思いますが、それは江戸時代の檀家政策(寺請制度)が今も多くの日本人の家族形態の基本になっているからであって、私たちの信仰伝統の根底にあるのは「敬神崇祖(神を敬い先祖を崇める)」という日本古来の神道の世界観です。そこのところを、故高田好胤薬師寺元管主は「名前の分かる先祖を〝仏様〟として、名前も分からない多くの先祖を〝神様〟として、日本人は手を合わせてきた」と分かりやすく説かれました。実は、高田先生から私が直接〝使用許可のお墨付き〟をいただいた〝傑作な説法ネタ〟があるのですが、「父方と母方の両方の祖父母の名前くらい小学生でも知っている」という当時の当たり前が通じない時代になって、まさに「笑えない話」になってしまいました。「敬神崇祖」の大切さをどう伝えるか…が、一宗教家としての私の課題です。
「十世代遡れば先祖は千人を超え、十四世代前は一万人を超す」という単純な計算結果を紹介したり、「子供のいない人はいても、先祖のいない人はいない」という〝言うまでもないこと〟を確認したりすることで、グローバル社会におけるアイデンティティー(自己の存在証明)の確立とアカウンタビリティー(説明の義務・責任)を果たすために「自らのルーツを知ること」は重要、すなわち「敬神崇祖」を日々の暮らしの基本にすることは、現代を生きる全ての人に重要かつ有効な生き方であることを説き伝えたいのです。
私は「太陽という星(恒星)が神ではないが、太陽のはたらきは神のはたらきである」という信仰を原始的(プリミティブ)だとは全く思いません。最先端の科学技術を以てしても解明できないことだらけの自然界のはたらきを、全て尊い神の御業(ご神慮)と信じて仰ぎ(信仰して)、「一切神徳(全ておかげ)」と拝んで受ける(拝受する)生き方が、日本人が古来大切にしてきた信仰姿勢なのです。これすなわち、「常に『おかげさま』の心で謙虚に感謝して生きること」であり、必ずや尊い「おかげ」をいただいて開運の人生を送ることのできる有り難い生き方に違いないのです。
「おかげさま」のおかげで、皆様のご多幸をお祈り申し上げます。
