第二十九回日本統合医療学会学術大会
“死”を語る、“生”を問う ─ シンポジウム発題
「病も気から ~限りなき身と思う嬉しさ~」①
教主 黒住宗道
コロナ禍初年の令和二年(二〇二〇)の八月号から十月号までの「道ごころ」に、「祈れ、薬れ」と題した講演原稿を掲載させていただきました。それは、日本統合医療学会岡山支部総会・学術講演会の講師を依頼されて準備したものでしたが、コロナ禍の拡大により中止になり、翌年に一部テーマが改められて再び依頼されたものの、コロナ禍が収束することはなく、オンラインによる配信になり(おかげで、今でも YouTube でどなたでも視聴できます。例えば「統合医療 黒住」と検索してみてください)、結果的に翌令和四年(二〇二二)十月に実際の講演をつとめさせていただきました。(同年十二月記事参照)
「医療と宗教(信仰・祈り)」をテーマにした学術会議で教祖宗忠神の御教えを真正面から説かせていただいたことは、掛け替えのない実績になったと今も光栄に有り難く存じておりますが、実は、本年十二月二十日(土)・二十一日(日)の二日間にわたって、岡山市内で「第二十九回日本統合医療学会学術大会」という全国大会が開催されることになり、私は「“死”を語る、“生”を問う」と題したシンポジウムでの発題者の依頼を受けました。登壇当日は本部冬至大祭の前日ですが、「有り難いご神慮!」と心得て準備を始めました。
それにいたしましても、まさか三年三カ月にわたるコロナ禍の幕開けなどとは露知らず、翌月の十四日が開催予定日であった「永遠の“今”を生きる」と題した「エンディング(終末医療)講座」の講演原稿の執筆を始めたのが、令和二年二月のことでした(同年四月~六月号「道ごころ」参照)。結局のところ、その講演も四年間の延期を経て昨年六月に実施できましたが(昨年七月号記事参照)、この度、二つの講演を融合させたようなテーマで発表の機会が与えられ、ご神慮の有り難さ霊妙さを感じずにはいられません。主催者からの講演依頼状には「病は気から」という仮題が付けられていたのですが、「それでは一般的すぎて思いが伝わらない…」と思い、失礼ながら修正して提示したのが本稿の題名「病も気から ~限りなき身と思う嬉しさ~」です。今月号と来月号の二回に分けて、講演要旨をまとめさせていただきます。
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「人は、万物(宇宙)の親神である天照大御神の分心をいただく(=日止まる)“神の子”としてこの世に生を受け、人生(道)という修行の場(道場)でのつとめを終えて、八百萬神の一柱の“神(御霊)”として天に帰って生き通す」という、黒住教の世界観に基づいて講演を行います。
「人の一生は、“神の子”が“神”になるまでの大切な期間」ですから、誠実に一生懸命に生きることが基本姿勢です。誰もが分け隔てなくいただく「天照大御神の分心」という“神の心”が、自分自身の“心の神”すなわち“本心”・“真心”なので、人は決して“罪の子”とか“穢れの子”ではありません。「人は元来、尊く清浄で有り難い存在」という前提を確認しておくことはとても重要で、「生命尊重」や「生きる目的」などを語る上での根拠ですし、何よりも「自分自身が、元気に陽気に充実した幸せな人生を送るため」の根本原理です。
「人は“神の子”すなわち、元来、尊く清浄で有り難い存在」ですから、どんなに厳しく辛く悲しい現実に直面しても「必ず乗り越えられる」と信じて努力することができます。もちろん実際には、個人の問題から地域、そして国内さらには国際レベルに至るまで、とても“神の子”の仕業とは思えない事件や犯罪や争いなど悲しい出来事が後を絶ちません。それでも、「純粋で清らかなるが故に傷つき汚れやすく、残念ながら好ましからざる環境や条件が整うことによって、結果的にもたらされた過酷な現象」と受け止めて現実に立ち向かい、真摯に原因の究明と解決策に取り組めば、「きっと本来の状態に復すること(本復)ができる」と信じて、前向きに力を出そうと鋭意努力する(誠を尽くす)ことが人生の修行であると考えます。
この“揺るぎない楽天的確信”と名付けることができる信仰観こそ、私は黒住教信仰の最たる特性だと思っています。そして、その確信の根源になっているのが毎朝つとめる日拝なのです。
私たち黒住教では、教祖宗忠神の実践と教えに基づき、毎朝の日の出を拝む日拝を最も大切な祈りとしています。古来、天照大御神と尊称されてきた太陽、とりわけ東の空に昇る朝日(旭日)を天地(万物)の親神が顕現した御姿と信じて祈るのですが、当然雨の日もあれば嵐の日や雪の日や曇りの日もあります。そもそも、神仏や霊魂という見えない存在を信じるのが信仰ですから、雲の向こうに昇ることぐらい誰でも知っている日の出を目の当たりにできない朝も、日拝は当然行います。目で見て拝めなくても、新鮮な酸素たっぷりの朝の冷気や鳥たちの囀りと虫の声の変化が日の出の瞬間を教えてくれます。日の出を直接見られない天気の朝を何度も経験しているからこそ、「いつか必ず晴れる」、「止まない雨はない」そして「明けない夜はない」という“楽天的確信”を、理屈を超えて私たちは実感しているのではないかと私は思っています。
ところで、祈りや信仰の話になると「おかげがある」とか「おかげがない」とか言われますが、私たちは“お日様信仰”ですから、実に単純に「日の光が差し込んで現れ出る結果」が「御蔭・御影」と明言できます。すなわち、日光が差し込む環境を拵えないと“おかげ”はくっきり鮮やかには現れません。暗く陰湿な状況に止まっていただく“おかげ”は、それ相応なのです。ここで「おかげがない」とはっきり記さないのは、たとえ傷つき暗く落ち込んでいても「生きていること自体が、生かされているという尊いおかげである」からです。冒頭に「人は、万物(宇宙)の親神である天照大御神の分心をいただく(=日止まる)“神の子”」と紹介した“分心(単独で用いる際は「ご分心」と称します)”を通して、天照大御神のご神徳という生命力・活力が万人に与えられますが、どのようにいただくかは受け皿である“わが心(知能と感情と意識)”の持ち方・用い方次第(相応)であることを教えたのが教祖宗忠神なのです。それは、黒住教が立教以来「養心法」とか「心なおしの道」と称えられてきた事実からも明らかです。
(以下、次号)