へぇ! そうだったんですね…
大元 宗忠神社
教主 黒住宗道
明治十八年(一八八五)四月十八日に教祖宗忠神御生誕の地に宗忠神社が建立・鎮座なって百四十年の今年、十月十一日(土)、十二日(日)、十三日(祝日)の三日間にわたって執り行われる記念祝祭のいずれかの日に、日ごろ教会所にお参りすることの少ないお子さんやお孫さん一家やご親族にも、家族単位でも個人でも構いませんから、ぜひ参拝していただきたいという願いを込めて、ご存じの方にはあらためて有り難く、ご存じではない方には驚きと感動をもって読んでもらいたく“大元 宗忠神社あれこれ”を列記します。
①備前国の中野の地が「大元」と称されるようになったのは、宗忠様がご昇天になって三年後の嘉永六年(一八五三)に挙行された「伊勢千人参り」での逸事によるものです。宗忠様がご在世中に六度も参宮された伊勢の神宮に、数十人で一組の白装束姿のお道づれ(信者)約一千人が、組ごとに列をなして歩いて岡山から伊勢に向かいました。ある組がいよいよ伊勢の宮川を渡らんとする時に、そこにいた足の不自由な地元の男性を不憫に思って組頭の岡本京左衛門先生が祈りを込めたところ奇跡的に足が立ち、本人が感激のあまり街中にふれ回ったためひと騒動になり、岡本先生は人心を惑わす要注意人物との嫌疑で当局の取り締まりを受けることになりました。「然るべき神宮の神官に話を聴いてもらいたい」と毅然たる態度で訴えた岡本先生の願いが聞き届けられて、先生の“牢越しの説教”に耳を傾けたのが、外宮神官で国学者の誉れ高かった足代弘訓先生(時に七十歳)でした。今も近鉄線伊勢市駅近くに堂々と祀られている足代先生の「神道の大元はここ伊勢だが、その教えの大元は備前の中野にあり」との御言葉を、ここで紹介せずに「へぇ! そうだったんですね…大元」は始まりません。
②「中野」という元来の地名に示されるように、広い平野であったこの地に、宗忠様がご在宅の日には高々と「日の丸」が揚がっていたそうです。電話もファックスもない時代に、毎月二と七の付く日は「御会日」(宗忠様にお会いできる日)と称され、遠方からもご在宅であることが一目瞭然だったようです。なお、明治三年の太政官布告によって「日の丸」が日本の国旗に規定されるに及び、「教」の旧字体が白抜きされたのが、お馴染みの黒住教の教章です。
③神社創建時、一帯の地盤が弱いことから、社殿に使用した木材の二倍の石数の黒松の丸柱が地中深くに打ち込まれ、昭和二十一年(一九四六)の南海地震でも被害は見られませんでした。なお、明治三十二年(一八九九)に竣工した現在の武道館(前大教殿)は南海地震で傾き、長らく補強を必要としていましたが、「本格的な大教會所(大教殿のこと)の建築は他日を期す」との竣工時の四代宗子管長様(当時)の御言葉が、後の神道山へのご遷座に帰結します。
④神社建立に必要な大量の御用材は各地方より運ばれ、電車もトラックもない時代に、各地の深山幽谷より備前の大元まで、良材を筏に組んで川や海に流したり、馬車に載せて曳いたりして、多大な労力が無数の人々の手厚い信仰によってなされました。遠く四国山地から伐り出された御用材にまつわる奇跡として知られるのは、「四国三郎」の異名をとる吉野川を「備前宗忠神社御用材 大元行」と墨書された木札が打ち立てられた筏に組んで流された御用材が、岡山の旭川河口に流れ着いたという逸事です。瀬戸内海に流れ出た筏を、各地の漁師さん方が潮に乗せてくれたのでしょうか…。
⑤現在は銅板葺の社殿の屋根は昭和五十二年(一九七七)に改修されるまで檜皮葺で、昭和二十年(一九四五)六月二十九日の岡山大空襲で被災し、棟の一つに表面が炭化した棟木と垂木を残しています。周囲一帯が焼失する中、社殿は焼け残ったものの屋根に落ちた焼夷弾の破片が、なんと黒焦げた棟札の上で止まっていたのです。当時小学校二年生であった六代宗晴前教主様は、神社の屋根から上る一本の煙の筋を覚えておられます。なお、空襲後に社殿は地域住民の人々の避難所として使われ、拝殿の回廊には調理に使った七輪の焼け跡が遺っています。昭和九年の大台風による大水で岡山市内が水に浸かってしまった時も、多くの人々の避難所になりました。
⑥宗忠様ご晩年の嘉永元年(一八四八)に、現在宗忠神社の本殿が鎮座する場所に建てられたのが、今の教祖記念館です。神社建立に際して移設され、昭和三十年代初頭まで大元家(教主一家)の住居でした。岡山大空襲時には、五代宗和管長様(当時)が御神体の鎮まる御社をお一人で奥庭まで運び出され、後日三人がかりで戻されました。その時の五代様の御手形が御扉にはっきりと残っています。五代様が、御社の御動座につとめられたその頃、大教殿では時の瀬尾礼蔵司教が、宗忠神社拝殿では宮口清吉勤番が、被弾するならば共に焼け失せる覚悟でお祓いを上げ続けられていました。これらの命懸けの祈りと行動によって、現在の霊地大元があるのです。なお、十月の記念祝祭当日には、普段決して目にすることのできない五代様の御手形を目の当たりに拝せるように、スポットライトを当てた特別な設えが計画されています。
⑦ちょうど一年前の令和六年七月十九日に、「大元宗忠神社本殿」「同拝殿」「同社務所(旧神饌殿)」「同御札所(旧神札殿)」「同北回廊」「同南回廊」「同教祖記念館(旧布教所兼主屋)」「同武道館(旧大教會所)」「同長屋門」「同門及び瑞垣」の施設十件が、国指定の有形文化財登録に答申され文部科学大臣によって受理されました。答申まで数年を要した諸作業が、ご鎮座百四十年を前に全て整ったこと自体が、まことに有り難いご神慮(おかげ)です。
掛け替えのない霊地・大元 宗忠神社で、お待ちしています!