へぇ! そうだったんですね…神道山
教主 黒住宗道

 黒住教立教百六十年の昭和四十九年(一九七四)十月二十七日に、教祖宗忠神ご降誕・ご立教の地である霊地大元から、有り難いお日の出を求めて霊地神道山に大教殿および教団本部施設がご遷座なって五十年、いよいよ立教二百十年の十月を迎えました。今月の十九日(土)、二十日(日)、二十六日(土)、二十七日(日)の四回に分けて執り行われる大祝祭のいずれかの日に、日ごろ教会所にお参りすることの少ないお子さんやお孫さん一家やご親族にも、家族単位でも個人でも構いませんから、ぜひ参拝していただきたいという願いを込めて、ご存じの方にはあらためて有り難く、ご存じでない方には驚きと感動をもって読んでもらいたい“神道山あれこれ”を列記します。

① 「神道山表並銘 昭和十乙亥」:昭和十年(一九三五)刻の立派な石碑が、神道山の麓の尾上地区の山側に立っています。「良い名前を付けましたね」と言われることがありますが、少なくとも今から九十年前には「神道山」と称されていた証拠です。その上で、私たちが感動とともに確信しているのが、「神道山という名称は『この地で開かれていた講席(集会)にお出ましになった宗忠様に命名していただいた』と代々語り継がれています」という、ご遷座の数年前に地元の長老方から聞いたお話です。
② 十万坪(三十三万㎡余)という広大な神域は、昭和四十四年(一九六九)契約時で百五十七戸の地権者に分筆登記されていました。しかも、御津郡一宮町尾上(三分の二)、都窪郡吉備町花尻、そして岡山市花尻と行政区分が異なり、一律に契約を進めることは事実上不可能と言われていましたが、前述の長老方を中心に「他ならぬ黒住教さんが、お日の出を求めて計画されているご遷座は、我々のご先祖が何よりもお喜びだから…」と、岡山を離れて暮らす地権者の方々まで説得して下さり、ただの一件の訴訟もなく売買契約を結ぶことのできた奇跡の境内地です。
③ 地元の有志で活動する「吉備の中山を守る会」の要請で、「中山茶臼山古墳案内板」を岡山市が設置したのは、私が教主に就任して間もなくのことでした。地元市民の依頼で行政が取り進める公的掲示板の設置ですから、私たちが与ることではなさそうですが、幅五十㎝・奥行き十㎝ほど土地さえも地権者構造が複雑でままならず、本教の境内地の一部を使っていただいたのでした。あらためて、十万坪の神域を当時の地権者の総意で譲っていただいた有り難さを、身に染みて感じたことを思い出します。
④ ご遷座のちょうど一年前の昭和四十八年(一九七三)十月に、日本経済に大混乱を引き起こした第一次オイルショックが起こりました。“狂乱物価”は新霊地御造営工事にも多大な影響を与えましたが、契約は全て完了していたため、一年後のご遷座は計画通り成就しました。この奇跡的なご神慮も、忘れてはならないエピソードです。
⑤ 「左尾上大元 右花尻」道しるべ:現在、黒住教学院に向かう階段脇に移設されている道標は、現在の鶯鳴館別館脇の旧道(当時)の三叉路に在りました。有り難いお日の出を求めてご遷座先の候補地が検討され始めた昭和四十三年(一九六八)十一月三日、若き日の六代様が初めて神道山に入られた日に、案内役の地元の方が指し示してくれた小さな碑に刻まれた「大元」の文字。まさに、大元と神道山を結ぶ道標になりました。
⑥ 教祖宗忠神ご降誕の地が「大元」と称されるようになったのは、宗忠様がご昇天なって三年後の嘉永六年(一八五三)に挙行された「伊勢千人参り」での逸事によるものです。詳しくは、来年の「大元宗忠神社ご鎮座百四十年記念祝祭」に際して紹介しますが、「大元」と刻まれた道標は決して遥か昔の遺跡ではないことを知っておいてもらいたいと思います。明治時代、山陰からの徒歩による大元詣での参拝者一行の最後の峠が、神道山だったのです。
⑦ 以前に本稿「道ごころ」でも紹介しましたが、古代吉備王国の中心「吉備の中山」の掛け替えのなさを実感していただきたいと思います。「大化の改新」によって律令国家体制が整えられた我が国ですが、最終的に四分割されたのは吉備王国だけです。今回は、国名と一宮を紹介しておきます。備前(吉備津彦神社)、備中(吉備津神社)、美作(中山神社)、備後(吉備津神社)。
⑧ 真金吹く吉備の中山帯にせる 細谷川の音のさやけさ:日本最古の勅撰和歌集「古今和歌集」の巻二十に詠み人知らずとして明記されている有名な歌に詠まれた「細谷川」は、その名の通り今も枯れることなく細やかに吉備の中山の谷合いを流れています。
⑨ 楯築遺跡:前方後円墳の原型として、近年日本考古学界で注目を集めている古墳時代前期の遺跡です。祭儀場であったストーンサークルの中心と神道山の日拝壇の中心が、どちらも「北緯三四度三九分四七秒」と寸分どころか一秒も違わない真東真西の位置関係であることが、私の教主就任直前に判明しました。
⑩ 黒住姓の発祥の地といわれる、その名も「黒住」という地に「黒住山遺跡(古墳群)」と「黒住遺跡(遺構)」があったことを知り、昨年と今年に現地を訪ねました。「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告 八九『山陽自動車道建設に伴う発掘調査』」という資料に詳細に記録された後、今は高速道路の下に埋まる「黒住」の地から楯築遺跡と吉備の中山を眺めながら、妙なるお導きに思いを馳せました。

 掛け替えのない霊地・神道山で、お待ちしています!