この方の清きところ
 ―黒住教の信仰観の特性 ④ “まることの世界”―
教主 黒住宗道

  心とはほかにはあらず天つちの 有無をはなれし中のいきもの (御歌一一〇号)
  天つちの心はおのが心なり ほかに心の有りと思うな     (御歌一九号)
  世の中はみな丸事のうちなれば ともに祈らんもとの心を   (御歌二〇二号)
  まるき中に丸き心をもつ人は かぎりしられぬ○き中なり   (御文一三六号)
  誠ほど世にありがたきものはなし 誠一つで四海兄弟     (御文一四一号)

 平成二十九年(二〇一七)九月十八日、黒住教第七代教主就任に際して、私は「『まることの世界』の実現を目指して」と題した「告諭」を発表して、教主としての所信を表明いたしました。

 “まることの世界”とは、人の誠に顕れる心の神のはたらきが一層現出されて、全ての人々が和やかに共に栄える理想の世界です。「人は元来、罪の子でも穢れの子でもない。ご分心(天照大御神のわけみたま)をいただく尊い神の子」と信ずればこそ、人皆の心の神のはたらきが大いに発揚されることを願って、「ともに祈り合い、互いの誠を活かし合って、“日の御徳”を取り次ごう」と、皆さまに呼び掛けています。

 そして、キーワードである“まること(丸事・〇事)”を「調和と循環、そして広がり」と定義しました。天地自然は、本来「丸い状態(調和)」と「丸いはたらき(循環)」の内にあり、天照大御神の「一切を活かし育む」神徳そのものである“まること”には、歪みや凹みや偏り、また停滞や断絶が本復する復元力があり、さらには「より大きく、より広く、より明るく、より強く」といった生々発展の活力(教祖神は「活物」と御教え)が備わっているので、「広がり」の一言が必要だと判断したのです。

 そもそも“まることの世界”という言葉は、明治時代の先輩方によって「まることの世界建設」が教団の大目標として掲げられたことに始まります。時代も価値観も大きく変わった現代の世の中で、勇猛果敢な大目標が相応しいとは思いませんが、決して忘れてはならないことは、私たち黒住教道づれ(教徒・信徒)のアイデンティティー(自分が自分であることの存在証明)が、教祖宗忠神畢生※の祈りである御聖願、すなわち
天照らす神の御徳を世の人に 残らず早く知らせたきもの
の達成であるということです。申し上げるまでもなく、この「御聖願達成」は、黒住教の根本的な存在理由として、時代に左右されることのない不変・不動の絶対価値です。

 ただ、考えてみれば「天照らす神の御徳を世の人に残らず早く知らせたい」のは、あくまでも教祖宗忠神の願いをわが願いとする私たち黒住教道づれの側であって、“知らされる側”の多くの人々にとっての願いではありません。知らされて迷惑な願いではないことは明らかですが、明治期の先輩方は、自分たちの願いを一方的に押し付けるのではなく、天照らす神の御徳(の有り難さ)を知った人々による“まることの世界”という理想郷を説き示すことによって、結果的に御聖願達成を目指したのではないかと思いました。

 そこで、私は教主就任に際して「以前からの大目標だから…」ではなく、自分たちのアイデンティティーをきちんと説明する責任(説明責任:アカウンタビリティー)を果たすためにも「“まることの世界”を掲げるべし…」と考えたのです。

 三カ月間にわたって、本稿にて「この方の清きところ ─黒住教の信仰観の特性─」と題して「神観」・「霊魂観」・「人間観」を紹介してまいりました。そして、それらのいずれにも共通する本教の最たる特性を“揺るぎない楽天的確信”と明示しました。とは申せ、現実的には世界各地で今現在も紛争が絶えることはなく、残虐非道な殺戮行為により無辜の市民が蹂躙され続け、国内外を問わず犯罪は激烈化・凶悪化し、さらに追い打ちをかけるように相次ぐ自然災害の激甚化による大惨事と、あまりにも悲しく辛く、悲観的または絶望的にならざるを得ないのが実状で、「楽観的になんて、とてもなれない…」が、誰もが感じる偽らざる心情です。にもかかわらず“揺るぎない楽天的確信”と明言するのは、他ならぬ教祖宗忠神が、そのご言動(御教えと御逸話:みせぶみ)の数々を通して、私たちに何度も明確にお示し下さっているからです。

 例えば、前回の最後に紹介した「道の理」を締め括る御教えは、「教えの五事」と称され重んじられてきた本教の教えの基本です。
  誠を取外すな
  天に任せよ
  我を離れよ
  陽気になれ
  活物を捉まえよ
それこそ、“揺るぎない楽天的確信”がなければ、これらの教えを信じて貫くことなどできません。実は、「この方の清きところ」と題したのも、教祖神が御書簡を通して、対立や混乱時の処し方としてお示し下さった「先方のぬけをとがめず、この方の清き所ばかり打ちぬき候えばよろしくござ候」(御文三五号)との御教えをいただいているからです。悲観、絶望、不安、恐怖、疑念等の絶えない日々にあって、「この方の清きところ」を貫き打ち抜く“揺るぎない楽天的確信”という心の柱を、お一人お一人の心に強く太く打ち立てていただきたいと念願いたします。

 ところで、私は、価値観が多様化し、これまで重んじられてきた伝統精神さえも忘れられつつある今の時代だからこそ、押し付けられる信仰ではなく自らの意志で納得して、人として大切な信仰心を養い育んでもらいたいと願っています。世界中の情報が瞬時に居ながらにして入手できる時代に、黒住教の素晴らしさ(清きところ)を明確に発信することは、もちろん「こんな宗教があったなんて!」と驚きと感動をもって関心を深めて下さる新たな人々を期待してのことではありますが、同時に、黒住教が家宗(教徒)として、また代々の信仰(信徒)として身近な存在でありながら、その有り難さを伝えきれていない方々に向けた教主からのメッセージでもあります。

 更には、かつて「黒住教には“釣り針の返し”がない」と、宗教評論家と称する方の指摘を受けたことがあるそうです。そのことを初めて耳にしたとき、私は意味が全く分かりませんでしたが、罰や祟りや因縁などの考え方が“信仰指導”の名のもとに用いられることがあることを知って以来、評論家のコメントは本教への“賛辞”だと思ってきました。実を申せば、「この“賛辞”を黒住教の特性・個性として発信しておきたい…」という思いが、数回に及んだ執筆の動機の一つでもありました。

 また、旧統一教会を巡る問題に関連して宗教法人審議会の開催が度々報道され、私が審議委員を務めた頃(平成二十三年までの十年間)とは全く比較にならない、今期の審議委員各位のご苦労を垣間見てきました。秘匿事項ばかりなので内容を伺うことはありませんでしたが、現代の日本社会に生きる多くの人々に「宗教を正しく認識してもらうための発信努力を怠ってはならない」と強く感じたのも執筆の切っ掛けになりました。

  奉祈 人皆の心の神の御開運
  天照らす神の御徳を取り次ごう
  互いの誠を活かし合って

[御開運の祈り併せて御聖願達成の祈り]
  謹みて天照大御神の御開運を祈り奉る
  併せて御聖願達成を祈り奉る

 ※生涯をかけること