この方の清きところ
 ―黒住教の信仰観の特性 ③ 人間観―
教主 黒住宗道

 「各体中に暖気の有るは、日神より受けて具えたる心なり。心はこごると云う義にて、日神の御陽気が凝結りて心と成るなり。人慾を去り、正直に明かなれば、日神と同じ心なり。心は主人なり、形は家来なり。悟れば心が身を使い、迷えば身が心を使う。形の事を忘れ、日神の日日の御心に任せ、見るも聞くも一々味わい、昼夜有り難いと嬉しいとに心をよせ、御陽気をいただきて下腹に納め、天地と共に気を養い、面白く、楽しく、心にたるみ無きように、一心が活きると人も活きるなり。生きるが大御神の道、面白きが大御神の御心なり」(教祖宗忠神の説教「道の理」の一部分)

 前回紹介しましたように、「万物(宇宙)の親神である天照大御神の分心をいただいて(=日止まって)この世に生を受けた『人』が、人生という修行の場(道場)でのつとめを終えて、八百萬神の一柱※として再び天に帰って行く時が死(昇天)」ですから、誕生から昇天までの「人間」としての一生は「『神の子』が『神』になるまでの大切な期間」と言えます。ただ、敢えて申せば「人の死は命の終焉(終わり)ではない、すなわち存在が無に帰する(無くなってしまう)のではない」ことを「生き通し」と称しているだけですから、「形を脱ぐ(人が死ぬことを意味する黒住教の表現)や否や、全ての霊魂が万能の神のようにはたらく・・・」とは考えられません。前回は「霊魂観」ということで、「在世中と同様に、子や孫たち(子々孫々)の幸せを願って温かく見守り、そして祈って下さっている」守護の神としての“ご先祖様”の存在を総括的に述べましたが、今回「人間観」をお話しする上でまず明らかにしておきたいことが、「この道は、人となるの道即ち神となるの道」と教祖宗忠神が明言された、「『神の子』として誠実に人生を全うして立派な『神』となる」という、「人としての本当の生き方」です。

 「人間観」を語る上で、「人間とは?」や「生きる目的とは?」といった哲学的な問いかけを避けては通れませんが、本教の場合「人とは『日止まる』の義なり。『日と倶にある』の義なり」と定義された「人」として、本来の、そして本当の生き方は明らかです。それは、単刀直入に申せば「天照大御神と一つになること(神人一体)」です。元々別々ではない(神人不二である)「神の子」たる「人」が「(本当の)人となる道」を歩むことが人生の意義・目的で、それがすなわち「神となる(天照大御神と一つになる)道」なればこそ、教祖神は「天照らす神の御心人ごころ ひとつになれば生き通しなり」(御歌四号)、「かぎりなき天照る神とわが心 へだてなければ生き通しなり」(御文二四三号)と詠んで、「神人一体としての生き通し」の有り難さを明確に教え示して下さっているのです。

 少々理屈が過ぎましたが、教祖神の説かれた「人としての本当の生き方」は実に単純明快です。冒頭の「道の理」に示されているように、「日神より受けて具えたる心(=天照大御神の分心)のままに、正直素直に、明るく陽気に、嬉しく楽しく面白く、有り難く、いきいきと活かし任せて生きる」という、徹底した「養心法」であり「心なおしの道」です。申し上げるまでもなく、その根本に在るのは「万物の親神である天照大御神の、全てを分け隔てなく照らし温める太陽の生々発展の神徳(御陽気)が凝結りて(全ての人の)心と成っている」という御教えに基づいた、「そもそも“罪の子”や“穢れの子”など存在しない。誰もが例外なく“神の子”」という確信です。

 「神観」・「霊魂観」そして「人間観」の全てに共通する、この“揺るぎない楽天的確信”こそ、私は「黒住教の信仰観の最たる特性」だと思います。「神観」で敢えて記した「世の中の地獄絵図の様相や悪魔の所業のような陰湿な罪や穢れ」、また「霊魂観」で述べた「『先祖の“罰”や“祟り”や“因縁”や“霊障”』等による(かもしれない)陰湿・邪悪な現象」、さらには、人が心に感じる「耐え難い苦痛、後悔、迷い、悲嘆、怒り、憎悪等の陰鬱な情念」も、「『元々存在して消去できない(どうしようもない)負の要素』なのでは決してない」と心から信じられるからこそ、「いつか必ず克服できる」、「きっと本復成就する」と希望を失わず、一所懸命の祈りを捧げることができるのだと思うのです。

 「信じて祈れば必ず“おかげ”をいただける」などと安直には申しませんが、わずかの可能性でも信じられることは重要です。それが、何の根拠もなくやみくもに「ひたすら信じなさい」ではないことは、黒住教の信仰観の特性としてしっかりと認識されなければならないことだと思います。

 最後に、「生きる=息する」という観点から本教の特性を述べておきます。

 教祖宗忠神の御教語がまとめられた「三十カ条」には、「怠らず御陽気を吸えよ」、「下腹で息をせよ」、「生ものは息するものという事で、人間は勿論、鳥畜類に至る迄 天照神の御神徳が、二六時中に鼻と口より通い玉う故、生きて居らるる。なんと有り難く尊い事では御座らぬか」と「呼吸」に関する教えが繰り返されます。また、冒頭の「道の理」の中心的な教えは「御陽気をいただきて下腹に納め、天地と共に気を養え」です。

 ここで黒住教立教の経緯を簡単に振り返っておきますと、宗忠様のそれまでの人生の全て(生きる目的)であったご両親を数日の内に相次いで失った深い悲しみと苦しみの結果、自らが罹患されたのが肺結核という呼吸困難の耐え難い苦しみを伴う致死の病でした。そして、奇跡的な二度の御日拝を経て本復した宗忠様が、ご自身の誕生日でもある文化十一年(一八一四)の冬至の朝日を拝む最中に、差し迫ってくる旭日の塊を思わず呑み込まれた瞬間が「天命直授」という立教の時でした。

 宗忠神が身を以て体験された「息する」ことの有り難さは、本教の「人間観」を語る上で欠かせない一大事だと思います。当たり前すぎて有り難さに気づかない事象・現象はいくらでもありますが、いつも無意識に行いながら意識して行うことができ、数分途絶えるだけで“死”に直結するのが呼吸です。考えてみれば、黒住教で大切な三つの修行として重んじ励行している「三大修行」は、「心して息をする修行」です。言葉の意味を求めず腹式呼吸で息の続く限り発声しながら大祓詞を繰り返し唱える「お祓い修行」、心鎮めて腹式で深呼吸しながら最後の一口をゴクンと下腹に納め続ける「御陽気修行」、それらを東天に昇る旭日の陽光の中で、すなわち出来立てほやほやの新鮮な酸素たっぷりの朝の霊気をいただきながらつとめる「日拝修行」。このように理解すると「黒住教の行は、息すること、すなわち生きること」と申せます。

 「道の理」の最後の部分を紹介して本稿を締め括ります。黒住教の魅力(この方の清きところ)が一人でも多くの方に伝わることを願っています。

 「教は天より起り、道は自然と天より顕わるるなり。誠を取外すな。天に任せよ。我を離れよ。陽気になれ。活物を捉まえよ。古の心も形なし、今の心も形なし。心のみにして形を忘るる時は、今も神代、神代今日、今日神代。世の中の事は心程ずつの事なり。心が神になれば即ち神なり」

 天つちにただひとすじのその道を すぐに行くこそ楽しかりけれ(御文一四〇号)

 ※柱:神霊を数える単位