この方の清きところ
 ―黒住教の信仰観の特性② 霊魂観―
教主 黒住宗道

 わが道は死ぬるばかりぞけがれなり 生き通しこそ道の元なれ(御歌二一一号)
 限りなき命の本の現れし 道のはじめに人となりぬる(御歌九三号)
 かぎりなき命の道をみちびかん 重ねたまえよよろずよまでも(御歌九二号)
 天つちとおないどしなる道の友 かわり給うなよろずよまでも(御歌一五号)
 天照らす神の御心人ごころ ひとつになれば生き通しなり(御歌四号)

 教祖宗忠神は、いわゆる“霊魂の永遠性”を「生き通し」という一言で御教え下さいました。門人への御書簡では、「道に入り給う人は、ご一生の御事ばかりにあらず、天地あらんかぎりの御事なり」(御文二五四号)と明言して、“この世(現世)”だけの人生(命)ではないことを御教え下さっています。冒頭に掲げた御神詠(何度も奉唱して下さい)をはじめ、数多くの御歌や御文を通して教祖神が説き示された黒住教の霊魂観は、「万物(宇宙)の親神である天照大御神の分心(ご分心)をいただいて(=日止まって)この世に生を受けた『人』が、人生という修行の場(道場)でのつとめを終えて、八百萬神の一柱※として再び天に帰って行く時が死(昇天)。すなわち、人の死は命の終焉ではなく生き通しの神としての出発の時であり、その存在は子孫にとって先祖の霊(御霊・霊神)という守護の神となる」と要約することができます。

 表現こそ違えども、世の中の大方の宗教は“霊魂不滅”と“先祖崇拝・先祖供養”の大切を教えますから、この霊魂観だけをもって黒住教の信仰観の特性とは明言できません。そこで、前回の「神観」と併せて考えると、本教ならではの霊魂観が明らかになります。すなわち、「万物の親神である天照大御神の、全てを分け隔てなく照らし温める太陽の生々発展の神徳の中で、あらゆる神聖なはたらきの総称である八百萬神の一柱として生き通す守護の神が先祖の霊」なので、一般的にいわれる「先祖の“罰”や“祟り”や“因縁”や“霊障”」等の陰湿・邪悪な現象を黒住教は意に介していないということです。本音を申せば「そのような現象はありません!」と断言したいところですが、「生き通しの存在(はたらき)」である以上、私たちに「都合の良いことばかり」ではないでしょうから「不都合なことがあっても不思議ではない」と考える方が自然です。それでは、どのように解釈するのかと申しますと、「神観」と同様に「“そもそも悪霊”とか“そもそも怨霊”は存在しない」という立場から、俗にいう「浮かばれていない…」とか「恨みを残したまま…」と感じられるような現象が仮にあったとしても、それは「守護の神としての本来の状態ではない」からなので、正しく祀ってしっかり祈ることで必ず本復(本来の状態に復元)すると信じることができる…という信仰観です。

 怒りや憎悪や後悔や執念等は非常に強い情念ですから、決して軽んじてはいけませんが、そうした負の感情こそ「罪・穢れとして祓い清めるべし」を旨とするのが本教の教えの根本なので、たとえ現実として祓われていない(俗にいう“成仏”していない)霊のはたらきと思しき現象があったとしても、そこに心を奪われてしまうことのない心の在り方・用い方を最優先して、「守護の神としての本来の加護」をひたすら願って教祖宗忠神に救済と教導の祈りを捧げ、諸々の先祖霊(御霊・霊神)に報恩感謝の祈りの誠を尽くすことを何よりも重要視するのです。

 また、「八百萬神の一柱として生き通す守護の神が先祖の霊」とは申せ、率直に申せば「存在が無に帰する(無くなってしまう)のではない」ことを「生き通し」と称しているだけですから、「形を脱ぐ(人が死ぬことを、黒住教ではこのように表現します)や否や、全ての霊魂が万能の神のようにはたらく…」とは考えられません。それでは、守護の神として“ご先祖様”はどのような存在でおられるのかと申せば、「この世での存命中と同様に、子や孫たち(子々孫々)の幸せを願って温かく見守り、そして祈って下さっている」と私たちは考えます。もちろん、人生という道場で徳を積んだ立派な人が高徳な神として立たれることほど尊いことはなく、その点は次回の「人間観」で述べさせていただきます。

 いずれにしても、先祖と子孫は親子の間柄ですから陰湿・邪悪な負の要素にばかり心奪われるのは申し訳ない限りです。昨今は、それこそ「本来の」と前置きしなくてはならない時代ですが「わが子の無事安全と幸せを願う」のが真の親の心(親心)だとすると、間違いなく先祖の心も同じであるはずです。

 そこで、よくお話しすることですが、「子供よりも孫の方が可愛い」と世の“おじいちゃん・おばあちゃん方”は口を揃えます。その理由はさておき、「孫も可愛かったが、曾孫は一段と可愛い」と、何人もの“ひいおじいちゃん・ひいおばあちゃん”から伺いました。「さもありなん…」と思った時に気付いたのが、「『ひ孫も可愛かったが、ひいひ孫はもっと可愛い』とか『ひいひ孫も可愛かったが、ひいひいひ孫はもっと…』と、ご先祖様方はみんな思って下さっているのではないか…」ということです。果たして本当にそうなのか確認のしようもありませんが、そのように考えるだけで、遠い先祖も身近に、そして温かく有り難く感じられます。

 この「子が親を思慕する」心情こそ、“親孝行の宗教”と称されてきた本教なればこその霊魂観であり崇祖の心だと信じます。宗忠神のご両親への孝の心を手本として、わが親、そして親の親、その親々…、遂には天地の親である天照大御神への孝養の心という縦軸が、黒住教の神観と霊魂観の基本軸なのです。

 最後に、「生き通しとは現在只今なり」という宗忠神の御言葉を紹介しておかなければなりません。

 冒頭に「教祖宗忠神は、いわゆる“霊魂の永遠性”を『生き通し』という一言で御教え下さいました」と明記しましたが、実は「生き通し」について説き明かされている御言葉は、この「生き通しとは現在只今なり」だけです。過去(過ぎ去った“昨日”)の後悔を引きずって(残念)心を痛める「持ち越しの苦労」と、未来(未だ来ぬ“明日”)への不安(臆病・疑念)に心を苛まれる「取り越しの苦労」を繰り返して戒められた教祖宗忠神なればこそ、「生まれる前の世(前世)や死後の世(来世)に心奪われて、掛け替えのない現在只今の有り難さに気付けなくならないように!」との厳しいご忠告であると私たちは深く学ばせていただいています。

 親の親その親親をたずぬれば 天照らします日の大御神(赤木忠春高弟詠)
 生まれ来ぬ先も生まれて住める世も 死しても神の懐の中(道歌)

 ※柱:神霊を数える単位