五代様五十年祭を迎えて
教主 黒住宗道

 昭和四十八年(一九七三)五月十三日の日曜日、分家の長男の結婚式の媒酌人をつとめるために大元家を出る際に、弟や妹たちと庭先で遊ぶ私の頭を扇子でコツンと軽くたたいて「仲良く、気をつけて遊びなさい」と言われたのが、私への五代様の最後の言葉でした。昼ごろ、「おじいちゃんが倒れた。すぐ来なさい」と呼ばれて宗忠神社境内の道づれ会館(当時)に走り込んだ時、五代様は父の腕の中で眠っておられるようでした。小学五年生の私は、「忘れてはいけない、とても大切な瞬間」という思いで五代様をじっと見つめていました。ご臨終を告げる主治医であった叔父の声、初めて接する父の嗚咽とズボンに染みる涙、叔母たちの号泣…。前後の記憶はありませんが、おそらく数分間の“大切な瞬間”は、今も鮮明に蘇ります。

 明治三十八年(一九〇五)十一月一日、病身であった母君の安全のため、八カ月足らずの五百匁(約一八〇〇g)という超未熟児で出生した五代様は、生来虚弱な体質でありながら最大時の体重が三十貫(約一一〇kg)という太った御身で、そのため負担の大きかった心臓が弱く、ご幼少時から死と隣り合わせにあることを自覚されていたようでした。それだけに、第七代の嗣子として生まれた初孫の私を、ことのほか可愛がって下さいました。

 かすかな記憶しかありませんが、私が三歳の時に両親が世界旅行のため四カ月ほど不在で、その間、叔父や叔母と共に私の面倒を見て下さったのが祖父母(五代様夫妻)でした。また、昭和四十年の「重症児運動」(岡山市内に重症心身障害児のための専門施設を作るため、教団の当時の青年層を中心に中四国の一般社会人を対象に展開された募金活動)や、折から教団をあげての「霊地運動」(霊地大元拡張大教殿改築運動)に昼夜を分かたず多用を極めていた父に代わって、いつも身近にいて下さったのが五代様でした。

 典型的な“おじいちゃん子”であった私が、七代教主として五十年祭の斎主を祥月命日である今月十三日におつとめいたします。

実は、この五代様の写真は、わが家(大元家)の祖霊舎に掲げられているご遺影なのですが、右下に鉛筆書きで1965と記されていることから、還暦の記念写真であることが分かります。いつの頃からでしょうか、ご遺影を見つめる度に「おじいちゃんは、こんなに若かったかなぁ…」と思うようになり、ある時ハタと自分が還暦に近づいていることに気づいて苦笑したことでした。来月に誕生日を迎える前、すなわちご遺影と同じ満六十歳の間に五十年祭の斎主のおかげをいただくご神縁を有り難く感じています。

 戦前・戦中・戦後の昭和激動期に教主(戦後に教規が改正されるまでは管長)として、ひたすら祈り、行じ、人々を丸く温かく活かし続けられた五代様でしたが、六代様が「日新」誌平成五年五月号の「道ごころ」に明記されているように、「なんといっても、そのやさしさの中に発揮された強さは神道山への大教殿ご遷座の決断」でした。


 昭和四十三年(一九六八)十一月、五代様のお許しを得て計画の立案が始まり、翌年の教議会の議決を経て本格始動した「新霊地運動」は、壮大なお日の出を求めて大教殿と教団本部施設を、教祖神ご降誕の地・霊地大元から、古来“神道山”と敬称されてきた古代吉備王国の神奈備山(神霊の鎮まる霊地)に遷座するという大聖業でした。その一切を息子である六代様に任せ切った五代様でしたが、昭和四十四年五月十四日の教議会で議決されて間もなく、全国の教会所所長と総代一人ひとりに“為書き”の「神道山」という扁額を八百数十枚染筆して、新霊地に寄せる熱い想いと、教会所幹部各位への深い労りの親心を示して下さっていました。

 昭和四十五年八月一日、起工式の斎主をつとめられた五代様の力強い鍬入れで、いよいよ新霊地神道山の造営が始まり、翌年の車参道の竣工を経て、昭和四十七年十一月十一日に大教殿地鎮祭が五代様ご斎主の下、全国からのお道づれ五千人が参列して、盛大かつ厳粛に執行されました。夜来の豪雨が完全に晴れ渡った祭典当日、現在の御神殿の建つ地点に立って祝詞を奏上されたのが、五代様の斎主としての最後のおつとめになりました。

 その年、すなわち昭和四十七年の七月十六日、心臓の衰弱から意識不明になった五代様は、三日後の十九日の朝、奇跡的に目覚められました。私が生まれた昭和三十七年以降、十年間で四回も重体に陥られたとのことで、事の重大さを知らない幼い私には、酸素濃度が調整されたビニールテントの中から、子供にも通じる冗談を言ってはゲラゲラ笑わせてもらった記憶くらいしかありませんが、三日ぶりに、まさに“蘇生”した五代様が、六代様に真剣な面持ちで語られたのが、「ご自身の心臓へのお詫びと御礼」でした。

 「教祖様の『この左京を師と慕う者を見殺しにはせぬ』の一言こそ私の信仰。意識もうろうとした中で、ひたすら教祖様の御名を呼び続けていた。そうした時、ふと気がつくと、私は心臓にお詫びを言い御礼を言っていた。弱い身でよく働いてくれた心臓へ一言の御礼も言っていない私だったから…」。

 五代様が御身を以てお示し下さった尊い御教えを、心新たに深く心に刻ませていただくことです。そして、媒酌人として且つ本家の主人としての説教中に倒れられた最期のお言葉が「茶碗と真綿」の御逸話。「人が茶碗を投げたら真綿で受けなさい。そうすれば、茶碗は割れもしないし傷もつかないし音もしない。真綿は、本物で柔らかくて温かいから…」。真綿に徹したご一生を貫かれた五代様に、心からの敬仰の誠を捧げます。

 新たな神道山時代の幕開けから教主として四十四年の長きに亘ってお導き下さった六代様から教主を継承して六年、明年はいよいよ神道山ご遷座五十年を迎えます。本稿執筆を前にして、私は「『黒住宗忠の思想と信仰』 道義科黒住宗和」と題された若き日の五代様の國學院大學の卒業論文を精読しました。「宗忠にならい、天照大御神の御開運を祈り奮いたって大道宣布すべき大使命がある」と力強く結ばれたご決意を心に銘じて、道の誠を尽くさせていただきます。