教書に学ぶ教祖神の親心 二
教主 黒住宗道
本誌昨年八月号の「道ごころ」に続いて、「教書に学ぶ教祖神の親心」を学ばせていただきます。
今回紹介する御書簡は、石尾乾介高弟にとって二度目の江戸詰め(参勤交代による殿様の御供としての江戸勤務)期間中の、文政六年(一八二三)三月から翌年正月までの御文一七号から御文三四号まで(整理上の“欠番”を含む)が該当します。本来は、御文ごとの一言一句を自分自身に宛てられた教祖神からのお手紙という心持ちで有り難くしっかり拝読すべきですが、月に二回(二日と十六日)しかない岡山-江戸間の通信手段(飛脚便)に間に合わせるように細やかなご配慮をもって認められた御文の数々を通して、教祖神の石尾高弟に対する親心、そしてお二方のお心の温かい交流を実感してください。
石尾高弟二度目の江戸への長旅に対する労いに始まる御文一七号と一八号(元々一通の御書簡:三月二日調)から、いきなり「有・無・生・死」の道が説かれます。一八号では「有無の山生死の海をこえぬれば ここぞ安楽世界なるらん」、そして五月朔日付の一九号では「千早振る神の生み出す生みの子よ 親の心をいたましむるな」という尊い二首の御神詠が登場し、同月十五日調は「玉子の御文」として名高い御文二〇号です。「まるで禅問答のような…」と表現したくなる深淵かつ高邁な御教えを、ここで手短に解説はできませんが、高弟にとって初の江戸詰めであった前年までのお手紙の内容とは明らかに異なります。
実は、「我をはなれ候事のみ執行仕候」と記された六月朔日認の御文二一号の後、八日から二十八日まで教祖神は大病を患われました。生死にかかわるほどの状態でも「二・七のご会日」では「活物(天地生々の霊機)」の溢れる力強いお説教をなさったとのことで驚くばかりですが、ご本復後の七月十二日調の御文二二号と二三号では、「誠に有無生死のば(場)を直に相勤候間」と、病になったことを喜び楽しんでいるかのように振り返っておられます。
その後は、御逸話「土肥家へのご訪問」で教祖神を毎回玄関までお見送りした土肥右近備前藩 主席番頭が、病床の教祖神をお見舞いした時のやり取りが紹介された御文二四号(七月十五日付)、ますます御道が栄え、霊験あらたかに天地の妙が現れるほどに、一層謙虚に自らを省みられる教祖神の御言葉に頭が下がるばかりの御文二五号(八月十五日付)、また、道の奥義を求めすぎる石尾高弟に対して、「いうて見つくに相成可申やと」と「言ってみるだけにならないように…」と御戒めくださった御文二六号(九月二十六日調)と、ご病気を経て一層崇高な“生き神様”の御姿を目の当たりにお示しくださる宗忠神でした。
まさに門前市を成すほどに御道の勢いが増すばかりであったこの頃、宗忠神は、と申しましょうか、御道は社会的な試練を受けています。“客”を奪われて逆恨みや嫉妬をした祈?師・占い師、医術師の類いから、激しい文句を言われたり、事実無根のデマ(流言)を吹聴されたりしていたのです。御逸話集の最初に納められている「お家へ火をつけた者のためにお祈り」の“事件”が起きたのは、御文二八号(十一月十五日付)が書かれた頃のことでした。
江戸で噂を知った石尾高弟が、居ても立ってもいられない気持ちで投函した見舞状の返信と思われるのが、その前の御文二七号です。
「十月十五日極晩」と記されていますから、十六日の便に間に合わせて「『尊答無異(お問い合わせの件につき異常ありません=心配無用)』の一言を、何としても届けておくべし…」との教祖神の親心がヒシヒシと伝わってきます。普段通り、丁寧にお手紙の御礼を述べ、高弟の江戸での勤務を労い、次に岡山のご家族もお道づれも、そしてご自身も、皆変わりないことをお伝えになった後に、「正は弥難有相まし、邪は弥邪に相成候」と「正しく陽気な心でいれば益々有り難く、邪で陰気な心でいると益々邪になる」と説いて、このような時こそ「何とぞ春の気に御成候而御執行可被成候」とお諭しくださった、短文ながら非常に重要なお手紙です。
何はともあれ、高弟も一安心されたことと拝察しますが、私たち「教書」を拝読する学び徒も、教祖神の泰然自若たる“道ごころ”に接して、感動とともに、まずは「難を難と思わず、何とも思わない」心の持ち方を学ばせていただかなければいけません。
その上で、“火つけ騒動”前後の御文二八号で、「大に執行の便と相成申候(中略)善悪共に御影と奉存候」(絶好の修行すべきところになった(中略)善悪ともにおかげだと思っています)と、まさに「難有有難」を、災難の最中(禍中)に、いつも通りの謙虚な言葉遣いを通して自然体でご教示くださっていることを、心から有り難く学ばせていただく次第です。
以降の御文二九号(十二月二日調)と三〇号(十二月二日朔日に調)は、いずれも十二月二日の便に間に合わせるべくお認めになったお手紙ですが、まさに妙なる「五社参り」の神秘的ご体験が語られた御文三一号との内容的な関連性が優先されて整理番号が付されていますが、時間の流れを追って拝読すると御文三〇号を先にいただくべきと考えます。
御文三〇号も、まず「尊答無異」の一言から始まっていますので、高弟が心配して尋ねたことへの「心配無用」の回答が第一声です。そして、普段と変わることのない丁寧なお気遣いが続き、その後に、一連の騒動を修行の場と受け止めて、自らを深く厳しく省みて祈りに徹せられる御姿に、尊崇畏敬の念を抱くばかりです。それとは別に、御文二九号では、少し体調を崩されている石尾高弟への「霊符(禁厭)」の添え状として、騒ぎのことには一切触れず、「心でおかげを受けるように…」とお諭しくださっています。
「五社参り」について明かされた御文三一号(十二月十二日調)では、「一節之流言も此節は何之沙汰も無御座候」と、全く意に介しておられないご様子で、「そんなことよりも…」とまで記されてはいませんが、もっと有り難く重要なこととしての「五社参り」の妙が綴られています。この御文だけ普段から名乗られていた「右源二」とともに「黒住右源次」と記名されている妙も、今では誰も知る由もありません。
文政七年(一八二四)に年が改まったことによる整理上の“欠番”を挟んで、正月十五日付の御文三四号が、一年間の江戸勤務を終えていよいよ帰藩される石尾高弟に宛てた今期最後のお手紙であり年賀のご挨拶です。冒頭の「要用無異」すなわち「特別に変わったことは何もありません」の一言から、いろいろ大変なことが起こったにもかかわらず、常に自然体で新年を迎えられた教祖神の穏やかなお心内が伝わってくるようです。