「まつる」ということ
教主 黒住宗道
辞書を引くと、「『祭る』と『祀る』は同じ意味で、『祀』は常用漢字ではないため、新聞等では『祭』に統一されているが、本来『祭る』は『命や霊魂を慰めること』で、『祀る』は『神に祈ること、また、その儀式』」とのことです。三大祭(教祖大祭、大祓大祭、冬至大祭)や開運祭・開運感謝祭等の神事(儀式)を祭典と称する一方で、「御霊を合祀する」という表現を日常的に用いている私たちからしますと、何となく「祭」と「祀」の意味は“逆”のような気もしますが、あまり細かいことは考えずに、「祭祀」、すなわち「『まつる』ということ」の大切をお話ししたいと思います。
「祭る」と「祀る」の違いはさておき、共通する精神と申しますか大切な心は「奉る」です。実は、ここでも「奉る」と「献る」を同じ意味合いで解説する資料が目に付くのですが、お道(本教)的には「奉る」ではないかと思います。「献上・献納・献金・献身」等の「ささげる」ことは申し上げるまでもなく尊い精神であり行為ですが、日々の「祭祀(まつり)」は常に「ささげる」ことを前提にしたものではなく、まずは素直に「尊敬、尊重、尊崇」する「奉る」だと思うからです。
一般論はさておき、私たち黒住教においては、常に教祖宗忠神がすべてのお手本です。その御手振り(御瀬踏み)や御教えから明らかなのは、本教にとって「『神と人』=『親と子』」です。「本来の『親と子』」とか「本当の意味での『親と子』」と一言補足しないと、伝えたいことが通じにくい世の中ですが、「『神心は親心』と『信心は孝心(子心)』」が基本であると明言できる私たちにとって、「『神をまつる』ことは『親を奉る』こと」と申せます。先祖の御霊(霊神)は明らかに“親の親の親・・・”ですし、その最終・最高のご存在として万物の親神である天照大御神、その親神とご一体の教祖宗忠神を信奉する黒住教の信仰観からしますと、常に「親を奉る」精神で神や御霊に向き合うことが「『まつる』ということ」です。
この点をはっきり示しておくことは結構大切なことだと思います。相変わらず「罰」や「祟り」や「因縁」で信者を“指導”と称して制御する“宗教”は後を絶ちませんし、一般的にも、“宗教”に対して「恐れ」や「怖さ」や「怪しさ」を感じる人が昔も今も多いという事実の背景には、「まつられている存在」に対する恐怖心があるからだと思います。圧倒的な存在への畏敬の念を伴う「畏怖」と、怯え慄くだけの「恐怖」とは違います。私は、“宗教”には「畏怖」は必要ですが「恐怖」は不要だと信じます。そこのところを端的・明確に示す上でも、「神=親」(本来の・・・)と説明できることは大切だと思うのです。
「掛巻くも綾に畏き・・・」とか「・・・畏み畏み白す」と、斎主が奏上する祝詞には、徹底して畏まって崇めて奉る文言が続きますが、それは「生贄や犠牲を供え・献じますから、どうか非礼をお許しください」のような謝罪と懇願ではありません。いつ何を祈る時にも、まずは「大御神及大神等の広く厚き恩頼を被り奉る事を有難く謝び忝み奉りて称言竟奉る状を平らけく安らけく聞召し諾い給いて・・・」と、ご神徳の恩恵(神の恵み)に浴していることを称賛し歓喜し感謝して「それ(称賛・歓喜・感謝していること)をお喜びくださいますように・・・」と願い奉った後で、必要に応じて「過ち犯せる種々の罪穢れ有らむをば神祓いに祓い給いて・・・」等の罪や穢れを祓い清めていただく願い事が唱えられ、最後に「夜の守り日の守りに守り恵み幸わえ給えと畏み畏み白す」と謹んで締め括られるのが黒住教の、と申しますか、日本古来の神道の祝詞です。「祝詞」ですから、祝い寿ぐ詞による称賛と感謝、すなわち「ブラボー!」が「『まつる』ということ」と申して差し支えありません。
当然のことながら、神前や霊前に供える物も、称賛と感謝の賜物であって、貢物ではありません。有り難い神の恵み(神慮・神徳)によって賜った産物を、感謝の心で奉って、神威を祝い寿ぐのが御供え(初穂)です。このように考えますと、お賽銭の意味するところも明白です。少なくとも、願い事のための“代金”ではありません。今ここに参れた喜びと感謝の心(御礼)をお供えしてから、いわば“ついでに”願い事を申し添えるのが本来の(本当の)祈り方なので、敢えて申せば、お賽銭は“謝金・礼金”です。
少し話が逸れましたが、神の恵みによって賜った産物を感謝の心で奉って神威を称えるお供え物だからこそ、神事の後に神前・霊前から下げて、有り難く共にいただく「直会」が尊いのです。もしも「捧げ献じた貢物」でしたら、後で、自分たちでいただくのは、それこそ罰当たりな行為になってしまいます・・・。
今月の「道ごころ」は、いきなり「『まつる』ということ」と題して始まり、いささか面食らわれたことと存じます。実は、このタイトルで講演を頼まれ、「よい機会だから・・・」と本稿執筆を通して考えをまとめさせていただいた次第です。春の祖霊祭の月を迎え、教祖宗忠神が本来の「命や霊魂を慰めること」という意味で「祭る」ことの大切をご教示くださっている一森彦六郎氏へのお返事(御文八八号、天保元年[一八三〇])の現代語訳を最後に拝読していただきます。
「(亡くなった従兄一森彦之丞氏の)御事を何かにつけてお忘れなさらないとの御事、ごもっともとは存じますが、もうあとへは帰らないことでございますから、ここがとりもなおさず祓いというところで、いつまでも帰らぬ事を慕うのは執着で、亡くなった人のために非常によくありませんし、あなた様の御ためにもよくありませんから、御執着をお止めなさって時々お祭りなさるほうがよろしいので、さっぱりと御執着はお祓いなさってください。(中略)
有るものはあるにまかせて無きものを
養う人ぞありがたきかな (後略)」
(「黒住教教書現代語訳」山田敏雄監訳)