玉鉾の道の御国にあらはれて
日月とならぶ宗忠の神
教主 黒住宗道

 今月号「道ごころ」の巻頭は、第一二一代孝明天皇御製と伝わる御歌です。このたび、「孝明天皇紀」(明治三十九年印刷)や「御製集」(大正六年発行)等の貴重な資料が、「国立国会図書館デジタルコレクション」を検索すると誰でも閲覧できることを知り、丹念に紐解いてみましたが残念ながらこの御歌を確認することはできませんでしたので、これまで通り「伝御製」としか申せません。しかし、百六十年もの昔から、本教の先人方が誇りと確信をもって語り継いで来た尊い御歌に込められた孝明天皇の宗忠大明神への敬神の御心を、私は今回の資料の閲覧を通して一層深い感動とともに有り難く学ばせていただきました。

 いよいよ迎える「神楽岡・宗忠神社ご鎮座百六十年記念祝祭」を前に、畏くも“維新の国父”とも称えられる孝明天皇陛下に敬仰の誠を捧げたいと思います。

 “維新の国父”という表現を自身のSNSで紹介している歌人で作家の田中章義氏によると、「全百巻に及ぶ『近世日本国民史』を著した徳富蘇峰は、『維新の大業を立派に完成した其力は薩摩でもない、長州でもない、其他の大名でもない。又当時の志士でもない。(中略)孝明天皇である』と語りました」とのことで、「(孝明天皇の)御製をすべて読んだ人たちはきっと蘇峰のこの意見に共感するのではないでしょうか。この大御心を学ばずして、実は明治維新を語ることはできないのだと思います」と結んでいます。

 「玉鉾の…」の御歌との出会いを期待しながら、私は閲覧できる限りの御製を拝見しましたが、とりわけ心惹かれたのが「孝明天皇紀」安政三年巻六十五で「和歌當座御會」の五月十日御當座に「寄世祝」と題して詠まれた次の御製です。

 寄世祝
天地の神のめくみにまかせつゝ
猶やすき世にあふかたのしさ
(天地の神のめぐみにまかせつつ
猶やすき世にあうがたのしさ)

 まるで教祖神の御神詠かと思うほど、「任天(お任せ)と陽気(楽天)」の御心に溢れた御製です。時代は、黒船来航、安政の大地震、そして安政の大獄と続く安政年間。御製に込められた大御心に、「教祖神の御教えによる影響がないはずはない…」と私は確信しました。と申しますのも、教団史に詳しい方はお気づきのように、この御製が詠まれたわずか二カ月前の安政三年(一八五六)三月八日に、「宗忠大明神」の御神号が下賜されているからです。先人方の並々ならぬご苦労には心からの称賛と感謝以外ありませんが、教団史で特筆されてきた「大明神号請願運動」の結果とは申せ、最高の御神号(神の御位)であり、日本史上最後の「大明神」を宗忠神が賜ったのは、孝明天皇の大御心によるもの以外にはないことを、このたびあらためて確信したことです。

 「孝明天皇紀」に宗忠神に関することが初めて登場するのは、ご鎮座わずか三年の神楽岡・宗忠神社に「国安(国家安泰)を祈らしむ」と記された慶応元年(一八六五)四月十八日付の頁です。この公式な御沙汰により、当社は孝明天皇が命ぜられた唯一の勅願所に認定されました。

 その歴史的意義に関しては、「ご鎮座百六十年を迎えた神楽岡・宗忠神社」と題して本誌五月号に執筆しましたが、実は岡山市出身で個人的にも面識のある歴史家の磯田道史国際日本文化研究センター教授に手紙を添えて掲載誌を送ったところ、先日お返事をいただきました。テレビ等での多忙な活躍ぶりを知る者として、先生の誠実なご対応に感激しました。そして、「禁門の変のとき孝明天皇が不動だったのは、外に出れば身柄を長州方の浪士にうばわれると聞かされていたからでしょう…」との回答に「それが学説か…」と思いながら、「ここまできちんと読んでくださったということは、九條尚忠公と二條齊敬公と三條實美公による宗忠大明神への信仰心もしっかり読んでいただけたに違いない…」と有り難く思ったことです。

 ところで、数年前に磯田先生の番組でも特集されていましたが、孝明天皇に最も大きな影響をもたらしたのは御祖父であられた第百十九代光格天皇でした。「朝儀(朝廷儀礼)再興と朝権(朝廷権威)回復に貢献し、今に続く近代天皇制の基礎を築いた」とのことで、平成から令和への改元当時「前回に生前譲位された天皇」として紹介された御方です。失礼ながら、光格天皇、次の第百二十代仁孝天皇、そして孝明天皇という御代三代の天皇陛下の継承を初めて意識して調べさせていただいて驚いたのが、そのご在位を示す年号でした。

  光格天皇、安永九年(一七八〇)から文化十四年(一八一七)。生前譲位。
  仁孝天皇、文化十四年(一八一七)から弘化三年(一八四六)。崩御。
  孝明天皇、弘化三年(一八四六)から慶応二年(一八六七)。崩御。

 ご降誕が安永九年で天命直授(立教)が文化十一年という、教祖宗忠様の現世でのご生涯の節目に「まるで合わせたようだ…」という驚き以上に私が感激したのが、孝明天皇が立たれたのが弘化三年二月十三日であったという事実を知ったからでした。それは、名高い御逸話「玉井宮でのご講釈」が行われたのが弘化三年三月十八日であったことと完全に符合したからでした。

 「その方を呼び出したるは、今まさに天下大乱なり。この世界中の大乱を鎮めねばならぬにつき、その方に総督総大将を申し付ける」と、高貴な長官から命ぜられたという夢の話を紹介して、「この左京(ご自身のこと)、これより心魂打ち込み、もっぱら人心鎮定に打ち掛かり、天照大御神のご神慮を安んじ奉る所存」と力強く宣言された宗忠神に御命を授けられた方こそ孝明天皇ではなかったか…。

 神楽岡・宗忠神社の祝祭を前に、孝明天皇への敬仰と感謝の誠を捧げる思いで、私の信じて疑わぬところを紹介させていただきました。