教主なればこその使命と喜び
教主 黒住宗道

 今月十八日は、名誉教主様の満八十五歳のお誕生日。すなわち、私が黒住教教主を拝命して丸五年の日です。今もほぼ毎朝、神道山の日拝所での御日拝を欠かすことなく、日々壮健にお過ごしの名誉教主様には、「日拝が元気の源」を体現して下さっています。まことに有り難い限りです。

 私自身、教主としての責務の原点は申すまでもなく毎朝の御日拝です。お祓いを上げ、祝詞奏上の後、お日の出前後の御光りを下腹に鎮まる我が本体たるご分心にお供えするべく全身全霊でいただく御陽気修行を通して、まさにエネルギー(活力)を充填し、心身ともに満ち足りた有り難さいっぱいになって、大教殿の御神殿と祖霊殿の御扉を開いて献饌・供饌(お供え)を行い、その日最初の御祈念をつとめます。

 この、朝一番の御祈念でのお取り次ぎ(祈り込み)が実に有り難く、いつも肚の底から込み上げてくる熱いものを感じながら息吹をかけて祈り念じさせていただきます。他の時の御祈念と比較するわけにはまいりませんが、御日拝直後の御祈念が格別であることは、どなたにもご理解いただけることと存じます。

 当日の御祈念の申し込みがあってもなくても、教主座前の小案(小さな台)の上に積み上げられた据え置き御祈念のほとんどが、いま重病に苦しんでいる方々の禁厭(御祈念札)です。全ての方のお名前と願意を記憶しているわけではありませんが、私は敢えて手作業で、何度も繰り返してお一人おひとりを心に刻ませていただく過程を拵え、御神前で祈っていない時にもご本人が私の心の中に常に在るように心掛けています。

 説明が過ぎると有り難みが薄れるものですが、何よりも分かりやすさが求められる時代なので、教主御祈念が申し込まれた際の過程(プロセス)を紹介しておきます。

 まず、御祈念申込用紙や手紙に書かれた症状・治療法等の文言を精読してから禁厭用紙に染筆します。その際、重篤な方や施術(手術や特別の治療)を前にした方を中心に据え置き用の御祈念も同時に認めます。そして、直ちに御神前に上がる場合と翌朝の御日拝後につとめる場合とがありますが、御祈念の後に主だった方の申込用紙や手紙をコピーして私自身でも保管します。

 やがて、大教殿の係がまとめた「御祈念簿」が届くので、それを詳しく確認しながら自分で保管している申込用紙と手紙を読み返して“後詰め(フォローアップ)御祈念”を染筆します。これは、最初の御祈念から約一カ月後に、「術後良好」や「本復成就・快気安全」を、開運祭(毎月の朔日に斎行)か開運感謝祭(毎月の第三または第四日曜日に斎行)で改めて祈るための禁厭です。そして、その後の経緯も含めて分かる限りをメモしながら、以前に本稿(令和二年七月号)で紹介した“祈帳面”に新たに、または追記してひと段落となります。随時届けられる病状報告を加筆しながら、その都度ご本人に思いを馳せ、今も折に触れて“祈帳面”には繰り返し目を通しているので、必然的にお名前や症状が脳裏に刷り込まれます。据え置かれた御祈念には、日々の御拝や一般御祈念等も含めて、大教殿で祈りが捧げられる際に必ず直禁厭(直接の祈り込み)がつとめられます。

 それに加えて、正月の歳旦祭でおつとめする「神道山新春特別御祈念」で病気平癒を申し込まれた方々(得てして、病状が慢性化している場合が多い)の“後詰め”として、四月の教祖大祭でお祈りして届けられるように、そして、前年の一年間を通して病気や怪我の平癒や手術安全・術後良好を申し込まれた方々には、六月の大祓大祭でお祈りして届けられるように(ただし、この時はすでにおかげをいただかれていることを願って、「当病平癒・傷病平癒・本復成就」ではなく「快気安全・心身健朗」等と染筆)、あらためて病み悩み苦しんでいる(いた)方々を思いながら筆を持ちます。

 「医学の目覚ましい進化・発展により、かつてのような“病気治し”の信仰は過去のもの…」と考える人は、今まで以上に増えているかもしれません。さらに、今年七月の痛恨極まりない驚愕の事件以来、「宗教」への不信感を一層強めた人も激増していることでしょう。しかし、「個化」と称される孤立・孤独化・無縁化は加速する一方で、世間は“ひとりぼっち”の寂しい老若男女で溢れ、その世間には迂闊に信じることのできない情報が蔓延しているという事実は、ますます現代人を精神的に苦しめています。しかも、相変わらず猛威を振るうコロナです。元気な時でも不安ばかりなのに、病み悩み苦しんでいる時に、全幅の信頼をおける“頼みの綱”は絶対に必要です。

 申し込みを受けてつとめる最初の御祈念の有り難さはもちろんですが、「常に心を寄せて毎日祈り続けてもらっている」という絶対的な安心と信頼によって、どれほど“おかげ”を受けていただいているか…。私は、教主就任以来の五年間を通じて数多くの感激と感謝の声を直接いただき、病み悩み苦しむ人への寄り添いと祈りが、教主なればこその最重要使命であり最高の喜びであると確信しています。「無念…」という結果も当然ありますから、「喜び」と表現すべきではないかもしれません。しかし懸命に祈った結果であれば、「教祖神のお導きの下に御霊ながらに生き通しの道を歩まれている」という揺るぎない思いにならせていただけます。それだけに、「あのお道づれが亡くなっていた…」という、御祈念の機会を得ぬまま訃報に接することが何よりも残念なのです。

 今月の「道ごころ」を通して、全国のお道づれの皆様には、個々に私と心で繫がっていただくことを意識してもらいたいと思います。そして、全国の教会所所長と教師各位には、私の思いを共有して、お道づれ一人ひとりとより強く固く心の絆で結ばれるべく、個々への祈りに一層心掛けていただきたいと念願します。過疎・高齢化が深刻な地域においても、離れて暮らす個人と繫がることは十分可能ですし、それが今の時代に最も求められていることだからです。

 もちろん、天照大御神ご一体の教祖宗忠神を敬慕する全ての方々にとって、黒住教教主が“頼みの綱”になれることを心から望んでいます。